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コロタイプと絵はがき

Posted by takumi suzuki on 11.2013 【コロタイプの歴史】   0 comments   0 trackback
明治期の便利堂
美術絵はがきことはじめ


「中村4兄弟」
母を中心に4兄弟(明治36年)。図1 前列左より左回り:弥左衛門(33歳)、母・ヤサ、弥二郎(31歳)、伝三郎(25歳)、竹四郎(13歳)

はじめに

 今回は、便利堂が書店から絵はがき店へと転換した明治期について少し詳しく触れたいと思います。まずはその前に創業から現在に至る流れを簡単に振り返っておきます。 

 明治20(1887)年創業。創業者は中村弥二郎、中村家の4人兄弟の次男です。「便利堂書店」とも称し、貸本売本や出版をはじめました。明治34(1901)年、弥二郎は便利堂を長兄弥左衛門に譲り上京、出版社「有楽社」を設立して日本の出版史に独自な一頁を加えました。経営を引き継いだ弥左衛門は、絵はがきブームに機を見て明治38(1905)年コロタイプ工房を開設、書店を絵はがき店に転業し、受注もはじめます。ブームが下火になる明治の末から、社寺や博物館において古美術を撮影し図録や絵はがきを受注制作する事業スタイルを作り上げました。

 次に受け継いだ三男伝三郎によって昭和2(1927)年に原色版印刷所が開設されカラー印刷も可能となります。ここにコロタイプと原色版とによる「美術印刷の便利堂」という基礎が確立されました。さらにその後を継ぐ四男竹四郎は、北大路魯山人と共同経営していた「星岡茶寮」を背景に、より大きく便利堂の事業を発展させました。中でも「法隆寺金堂壁画原寸大撮影」はその後の文化財保存において大変意義のある仕事であったといえるでしょう。そして第二次世界大戦の苦難の中で舵取りをし、戦後の我々の時代へと事業をつなぎました。以上が便利堂のあゆみのアウトラインです。

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北大路魯山人(右から二人目)と中村竹四郎(左端)。鎌倉・星岡窯の母屋にて(昭和2年頃)


京都の文明開化と便利堂の創業

インクライン
図2 絵はがき「京名所百景」より「インクライン」(明治38年頃発行)

 明治初期の京都の町は維新によってその中心部のほとんどを焼失し、荒廃を極めていました。そのうえ東京奠都(てん と)によって天皇をはじめとして公家やその使用人、一般庶民までもが続々と東京に移住したため御所周辺は大いに寂れ人口は激減していました。そこで、意気消沈し経済的にも深刻な状態に陥っていた都を復興すべく、積極的な西欧近代技術の導入やさまざまな殖産興業政策が推し進められていきました。

 明治4(1871)年に「第1回京都博覧会」が開催されます。明治10(1877)年には初代京都駅が完成。明治18(1885)年琵琶湖疏水が着工され、明治23(1890)年に第1疎水が完成しました。この水を利用した水力発電所が開設され、その電力によって蹴上インクライン(傾斜鉄道。図2)が稼働。平安遷都1100年記念の明治28(1895)年には、第4回内国勧業博覧会の誘致にも成功し、それに合わせて日本初の路面電車も敷設されました。便利堂が創業したのは、こうした京都の近代化が足長に進むさなかの明治20(1887)年です。


「錫屋弥左衛門」から「便利堂」へ

「御所通行手形」
図3 錫屋時代の御所の通行手形。 裏面に「錫屋弥左衛門」とある。

 創業家の中村家は代々「弥左衛門」を名乗る御所出入りの錫(すず)屋でした(図3)。先代弥左衛門は弥作といい、無学ながらも実直な勤勉家であったといいます。弥作には4人の息子がいました。長男弥左衛門(本名徳太郎、明治3年−大正14年)、次男弥二郎(明治5年−昭和19年)、三男伝三郎(明治11年−昭和5年)、四男竹四郎(明治23年−昭和35年)です(図1)。

 時代は滔々と新時代を迎えつつある中、錫屋の商売は次第に細々となり、何か新しい生活の手段を求めねばなりませんでした。そこで長男弥左衛門は親戚の呉服屋に預けられ、修業をすることになりました。残った次男弥二郎は、企画性とユーモアに富む人物で、明治の新しい気風の中で今までにない斬新な文化的事業を目指し、弱冠15歳で貸本店を興します。これが便利堂の始まりです。創業地は錫屋の店舗と住まいがあった「新町通竹屋町南」、現在の本社所在地と同じです。

「貸本目録」
図4 「貸本目録」草稿(明治23年7月頃)

 創業期の資料として「貸本、雑誌、古本、願届書写し」(明治21年11月7日)と「貸本目録」草稿(明治23年7月頃。図4)が残っています。前者には『国民之友』『日本人』をはじめとする雑誌および古書が72冊、後者には哲学、宗教、政治、経済、科学、文学など1200冊が挙げられています。貸本といっても、このような専門書などの硬い本が中心であり、私設図書館といってよいものでした。

広告
図5 明治22(1889)年頃の広告。この広告から、新町の本店以外に「第三高等中学(京都大学の前身)」と「同志社学院(現在の同志社大学)」の前にそれぞれ支店があったことがわかる。また、絵画・意匠を米僊に依頼していたことも判明する。

 「便利堂」という屋号は創業当時から用いているもので、弥二郎が名付けたものでしょう。明治22(1889)年頃の広告が残っています(図5)。これを見ると、新刊本・古本の販売、貸本、雑誌・新聞の販売配達といった書店業務だけでなく広告・デザインまで行っています。この「便利」という言葉には、明治の文明開化におけるさまざまな新規的事業を一手に引き受ける、従来にない文化的ビジネスを目指す弥二郎の強い思いが込められているといえます。少し滑稽味を帯びた彼一流のネーミングセンスは、この後も生涯にわたって遺憾なく発揮されます。


出版第1号『文藝倶楽部』と出版人弥二郎

『文藝倶楽部』
図6 『文藝倶楽部』第1号 (明治22年2月発行)国立国会図書館蔵

 創業間もなく出版にも本格的に着手します。存在が確認できている最初の出版物は、明治22(1889)年2月に刊行された滑稽雑誌『文藝倶楽部』です(2号で休刊。図6)。山田美妙による連載小説はじめとして、論文、随筆、狂歌、狂句など多彩なジャンルを含んだ雅俗折衷の雑誌です。日本最大の滑稽雑誌である東京の『団団(まるまる)珍聞』(明治10年創刊)や京都の『我楽多珍報』(明治12年創刊)などにつづいて誕生した『文藝倶楽部』は、同時期の『雅楽多』(明治22年11月創刊)、『京都日報』(明治22年3月創刊)の文芸欄「滑稽大同団結酒連会」と並んで京都の滑稽家たちにとって恰好の活動の場となります。

「便利燈」
図7 『便利燈』の出版届控(明治21年9月20日)

 ここで注目されるのは、弥二郎の「滑稽趣味」というべきものが草創期からすでに見受けられること、最初の出版が雑誌であること、そして画家であり滑稽家でもある久保田米僊との親密な関わりが初期の便利堂の人脈を形作っていたのではないかということです。図7は明治21年に『便利燈』という二つ折りのPR誌の出版届控です。文面には「中村弥二郎著述、便利堂貸本広告を旨とし、滑稽文を以て新字体に記載せしもの」とあり、『文藝倶楽部』の萌芽を感じさせるものとなっています。

 久保田米僊は明治10年代の沈滞していた京都の画界を復興すべく精力的に東奔西走した画家でしたが、『我楽多珍報』創刊時からの主要メンバーであり、戯画を担当する滑稽家でもありました。『文藝倶楽部』では本文挿画とともに表紙絵を寄せています。表紙絵は米僊のほかに富岡鉄斎、望月玉泉(2号は幸野楳嶺に差し替わる)が描いています。

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『文藝倶楽部』 鉄斎の表紙絵部分

 便利堂の歴史の中で最も関わりの深い画家のひとりである鉄斎との最初の出会いが、おそらくこの表紙絵の寄稿であり、それが米僊の紹介ではないかと推察されます。こうした米僊との交流が便利堂草創期における弥二郎の出版活動の人脈的基盤となったことは想像に難くありません。また「滑稽趣味」「雑誌志向」はその後も出版人弥二郎の大きな柱として続いていきます。このほか、弥二郎時代の出版物として確認できているものは下記のとおりです。


出版物(弥二郎時代)

『ナショナル第三読本 難句弁明』(草稿) 大久保房次郎/訳述 明治25年
『萬理遠征 福島中佐歓迎軍歌』 猪熊夏樹/著 明治26年3月17日発行
『京名所写真図絵』 広池千九郎/著 
小川一真/撮影・銅板印刷 明治28年4月1日発行
『天皇陛下皇后陛下御真影』 小川一真/銅板印刷 明治28年5月25日発行
『大葬図鑑』中村弥二郎/編 明治30年3月
『後世への最大遺物』 内村鑑三/著 明治30年7月15日発行
『京都月報 第3号 臨時増刊「花の京都」』 
口絵:小川一真/銅板印刷 明治33年3月15日
『謡曲解釈』 関目顕之/著 明治33年10月20日発行


便利堂と内村鑑三

「内村鑑三『後世への最大遺物』」
図8 『後世への最大遺物』 内村鑑三/著(明治30年7月15日発行)

 ここで特筆すべきはキリスト教思想家、内村鑑三の代表的著述『後世への最大遺物』(図8)の出版です。明治24(1891)年、当時第一高等中学の嘱託教員であった内村が教育勅語奉読式において天皇宸署に最敬礼しなかったことが社会問題化します。この「不敬事件」として有名な一件により、内村は日本中から非難を浴びることになります。東京を追われた内村は各地を流遇したあと京都に逃れてきました。すでに雑誌書籍で内村の思想に触れていたと思われる弥二郎は、持ち前の大胆さで内村を訪ね知遇を得たといいます。弥二郎は明治28年から約1年間、困窮を極めていた内村に中村家の離れを提供し、その縁によって本書が刊行されました。「人は後世に何を遺すのか。金、事業、思想なども一つの遺物である。しかし誰にでも遺すことができるもの、すなわち最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である」と本書は説いていますが、この内村との出会いが精神的転機になったのか、弥二郎は明治34(1901)年に便利堂を長兄弥左衛門に譲り上京、明治36年(1903)年末頃に出版社「有楽社」を設立して、さらに個性的な出版を続けました。

「内村鑑三と弥左衛門、伝三郎(大正10年)」
図9 大正10(1921)年。内村鑑三(手前中心)と弥左衛門(左)、伝三郎(右)。弥二郎上京後は、弥左衛門が弥二郎に替って親交を深め、その関係は晩年まで続いた。

滞在記念
図10 内村鑑三の滞在記念の石碑。はなれのあった中庭に記念に建てられた。現在は本社玄関スペースに移設、展示されている。


京都の文化を愛した弥左衛門

 弥左衛門は長らく親戚の呉服商に修行に出ていましたが、明治27年から28年初には中村家に戻り弥二郎の仕事を手伝っていたと思われます。先に挙げた多様な出版リストの中で弥左衛門が担当したのではないかと思われるのが、第4回内国勧業博覧会の開催に合わせて出版した『京名所写真図絵』です。京名所案内と博覧会のガイドブックを兼ね備えた本書は、のちに弥左衛門が刊行する京都の文化をテーマとした書籍や絵はがきとの類似性を強く感じさせます。

 弥二郎から便利堂を受け継いだ弥左衛門は、伝三郎とともに1年以上の時間を掛けて出版の準備をします。伝三郎は明治36年に結婚して姓を田中に変え、翌年より日露戦争に従軍しますが帰還後は兄の下で長らく活躍しました。明治36年の1年間に出版したものは次の通りです。


出版物(明治36年)

『明如上人御伝記』 中村伝三郎/編 明治36年1月28日発行
『松年画譜』第1巻~第3巻 明治36年
『京都の山水  (京都写真帖第1巻)』 明治36年4月10日発行

「京都の山水」
図11 『京都の山水  (京都写真帖第1巻)』 題字:富岡鉄斎 表紙絵:竹内栖鳳(明治36年4月10日発行)

京都写真帖付録「Map of Kyoto」 明治36年4月10日発行
『鴨東百美人 前編 (京都写真帖第2巻)』 明治36年4月13日発行

京都百美人
『鴨東百美人 前編 (京都写真帖第2巻)』(明治36年4月13日発行)

『西園山水画帖』 明治36年4月19日発行
『京都名所写真帖』 明治36年5月13日発行
『京都の寺院  (京都写真帖第3巻)』 明治36年9月15日
『京都の桜花  (京都写真帖第4巻)』未刊
『京都の祭礼 (京都写真帖第5巻)』未刊
『春挙画集』第1巻 明治36年11月5日


 上期だけで実に10冊近い本を出版しており、弥左衛門の意気込みを感じます。また弥二郎の多様さとは違い、テーマを京都の文化風物に絞り込んだ端正なラインナップとなっています。ほとんどがコロタイプによる写真帖、画集であり、これも弥左衛門の特徴といえるでしょう。

「帰雁来燕」と絵はがきブーム

帰雁来燕2
図12「帰雁来燕」表紙と見開き(明治35年発行)
明治33年に私製はがきの使用が認可されると、東京や大阪で絵はがきの発行が本格的に始まります。この「帰雁来燕」は、時代の流行にいち早く反応して刊行した便利堂最初の絵はがき。歌集に絵はがきが差し込まれたユニークな形態。


 弥二郎と弥左衛門とが事業継承する狭間に生まれたのが便利堂最初の絵はがき「帰雁来燕」(明治35年発行。図12)でした。初めに「絵はがき」という新しいアイテムに着目したのは弥二郎でしょう。しかしこの企画を立案し、田中美風に歌と絵を依頼したところで弥二郎は上京してしまいます。この後しばらく便利堂から絵はがきの刊行がないのはこのためだと思われます。「帰雁来燕」の冊子に絵はがきを綴じ込み、読み物を載せるユニークな形式は、有楽社で明治38年1月から刊行した雑誌『月刊絵はがき』(図13)に踏襲されています。

月刊絵はがき
図13 『月刊絵はがき』(明治38年発行 有楽社)

「バルチック艦隊の撃沈」(東京パック第1巻第3号)
図14 日露戦争で日本軍がロシアのバルチック艦隊を破り、各国が歓喜している様子(『東京パック』第1巻第3号より 明治38年6月発行)。明治37年に始まった日露戦争が絵はがきの利用に火をつけ、翌38年に空前の絵はがきブームを迎えた。

 弥左衛門が満を持して再スタートした出版事業でしたが、「京都写真帖」シリーズが未刊に終わり、翌明治37年には新刊がほとんどなかったことからもなかなか厳しい状況だったのではないかと想像されます。すでに明治37年3月創刊の『手紙雑誌』(図15)で早々(はやばや)とブームに乗っていた弥二郎からの助け舟が、有楽社とのタイアップによる絵はがき「不如帰」の企画だったのではないでしょうか。年末に発行された「不如帰」(図16)に続いて明治38年2月に刊行されたのが鹿子木孟郎の風刺漫画「非美術画葉書」(図17)です。有楽社が一世を風靡した風刺漫画雑誌『東京パック』(図18)を刊行したのは同年の4月であり、初期の便利堂絵はがきは多分に弥二郎の影響が感じられます。

手紙雑誌
図15 『手紙雑誌』第1巻第2号 (明治37年4月発行 有楽社)

不如帰2

不如帰1
図16 絵はがき「不如帰」(明治37年12月発行)

非美術画葉書
図17 「非美術画葉書」 絵:鹿子木孟郎 (明治38年1月発行)

「東京パック」1
図18 『東京パック』 第1巻第3号(明治38年6月発行 有楽社)


写真とコロタイプの便利堂へ

「京都の寺院」
図19『京都の寺院  (京都写真帖第3巻)』 表紙絵:山元春挙(明治36年9月15日発行)

 当時の便利堂と絵はがきブームの様子を有名な大阪朝日新聞の記者、大江素天はこう述懐しています。
「便利堂の中村弥二郎氏が未練気もなくしにせの古い本屋をやめて絵葉書屋になった。私たちは毎日のように店頭に押かけて月給袋の底をハタいたものである。ハタき足りない時は無論借金である。」(『写真太平記』)

1葵祭
図20 絵はがき「葵祭」 絵:鹿子木孟郎 (明治38年5月頃発行)

 書籍の出版から絵はがきへの転換を余儀なくされたものの、ヒット作によって経営も軌道に乗ってくると、弥左衛門の主題である「京都の文化」をモチーフにした絵はがきが増えてきます。「非美術画葉書」の鹿子木には葵祭(図20)や嵐山を描いてもらい、さらに京都の姿を撮影しコロタイプで印刷した絵はがきへとシフトしていきます。これは明治36年に出版した『京都の山水』(図11)『京都の寺院』(図19)の流れを汲む弥左衛門独自の志向であり、その代表が「京名所百景」(図21)シリーズといえるでしょう。そして絵はがきブーム後は、図録・絵はがきの受注制作という今の便利堂の原点となる事業スタイルを確立し、文化財の撮影や印刷物・出版物を通して京都の文化、日本の文化の継承を目指しました。この精神は今も便利堂に引き継がれています。

京名所百景
図21 絵はがき「京名所百景」シリーズ(明治38年頃発行)

祇園祭
図22 絵はがき「祇園祭」(明治39年頃発行)

※『明治の京都 てのひら逍遥』収載原稿を加筆修正しました。

絵はがき本

『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』
監修/生田 誠
1200円+税
ISBN978-4-89273-100-6
⇒ご購入はこちら


◎コロタイプ150年の歩み――日本はコロタイプの国である

Posted by takumi suzuki on 18.2012 【コロタイプの歴史】   0 comments   0 trackback
「コロタイプ技術の保存と印刷文化を考える会」第14回研究会【講演】
コロタイプ150年の歩み――日本はコロタイプの国である (抄)⇒全文はこちら 
東京都写真美術館 金子 隆一先生

金子先生1

 今日はこの「コロタイプ技術の保存と印刷文化を考える会」で、こんなに沢山の人の前で話が出来るということは、光栄というよりも、とにかくとても嬉しいです。コロタイプ印刷について色々な思いがありますし、写真の歴史を研究するなかで、この技術がいかに日本の写真の歴史にとって重要なものであるかということを痛感しているからであります。

 今日は、皆様に資料として「写真印刷年表――コロタイプ印刷をめぐって」(下記【表】参照)をお配りしております。基本的にこの年表に沿ってお話をさせていただきます。

 この年表に写真集や写真雑誌については個別にデータ的なものを書いております。ここに取り上げたものを全部皆様にお見せするということは、残念ながらスペースの問題、東京から持ってくるという関係がありましてかないませんでしたが、私がする色々な話もさることながら、現物を是非見ていただきたいという思いがあります。そこで、小川一真が日本で最初に商業的なコロタイプ印刷として携わった美術雑誌『國華』創刊号を始めとして、コロタイプ印刷、もしくはそれに関係する他の技術による写真印刷物を今日、ここに持ってまいりました。

 まず、私が最初にコロタイプに大変興味を持ったのは、今から30年ほど前、それまで「写真の本道を外れて、間違った方向に進んだつまらないものだ」という評価をされていた、日本の大正期を中心としてピークを迎える日本のピクトリアリズム、絵画主義の芸術写真に興味を抱いたことに始まります。写真雑誌等を手がかりに実際様々なオリジナル作品を見ますと、私には大変面白く、良い作品が沢山あるじゃないかと思いました。何でこれを、本にダメだと書いてあるからダメだと言わなくてはいけないのかという非常に素朴な疑問を持ったのでした。(略)

 ヨーロッパやアメリカのギャラリーでは、いわゆる普通の印画紙、銀塩のゼラチン・シルバー・プリントに焼き付けたもの、またピグメント印画法と言われるゴム印画、そしてブロムオイル印画等の特殊な技術、また銀塩ではなくプラチナタイプ、サイアノタイプ等鉄塩を使う様々なものが「オリジナル・プリント」と言われ、手刷りのグラビア、ハンドメイドグラビアとも言われるフォトグラビア、いわゆる網点(スクリーン)を使わない撒粉式のグラビア印刷で刷ったプリントも、それと同等のものとして扱われています。

 アルフレッド・スティーグリッツが編集した『カメラワーク Camera Work』という雑誌がございます。1903年に創刊された雑誌で、全部で50冊出ておりますけれど、これは非常に精巧なフォトグラビア印刷です。そのリーフがオークション等で1点100万円、200万円という単位で取引されるということが現実としてありました。実際にそういうものを東京都写真美術館で100万円単位で購入したものもございます。ヨーロッパやアメリカの人たちには、フォトグラビアの印刷物は「オリジナル・プリント」なのです。

 では「コロタイプの印刷物はどうなのか」と、ある研究者に訊ねました。ジェフリー・ギルバートという人ですが、ギャラリーも経営し、研究者としても非常に業績のある方です。その彼に言わせれば「フォトグラビアはハンドメイド、手で刷るけれども、コロタイプは機械的なもの、メカニカルなものだからそれはオリジナル・プリントと言うことはできない」というのです。「そうか」と私は思いました。が、同時に「でも」とも思ったのです。

私が興味を持った日本のピクトリアリズム芸術写真のなかで、淵上白陽が編集したコロタイプ印刷による雑誌『白陽』のリーフはとても素晴らしいです。それをもって私は初めて日本のピクトリアリズムについての論考をカメラ雑誌に書くことができました。

 そこで「日本ではフォトグラビアはあるのか」と調べると、無いんです、その歴史が。1906年、『写真月報』1月号(第11巻第1号)に結城林蔵という研究者が、フォトグラビア法の見本として、写真家・渡辺進が撮影した「肖像(ポートレート)」を凸版印刷合資会社の印刷で掲載しています。そういうことは出てくるのですがそこから先は無い。フォトグラビアの歴史というのは、勿論アンダーグラウンドで目に見えない形では色々あったかとは思いますけれど、表には出てこない。日本にはそのフォトグラビア印刷がないとすると、芸術写真の歴史のある部分が無いということになってしまいます。「これはおかしい。あるじゃないか、ここに」というのが、私が「コロタイプ」に直接的な興味を持った最初でございます。

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 この「コロタイプ」という印刷技術は、ヨーロッパやアメリカではどうだったのでしょうか。確かにジェフリー・ギルバートが言う通り、機械的なものとしていわゆる学術報告などで使われることはあったとしても、それ以上の、芸術的なものを印刷する技術としては大成しませんでした。勿論幾つかあるかもしれませんが見ることが出来ません。

 それでは日本ではどうだったのか。日本の「コロタイプ」は、明治の末から大正時代をピークとして昭和まで続くピクトリアリズムを標榜した芸術写真を、まさに「オリジナル・プリント」と言っていいクォリティーを持って十二分に再現する印刷技術として花開いているわけです。このことをもっと強く言わなくてはいけないのではないかとずっと思っています。

 幸いにして私は、外国で色々な日本の写真の展覧会企画に関わる機会を得ることが出来ました。そういうなかで私の経験したことを話し、日本のコロタイプ印刷によるプリントが、フォトグラビアと同等の存在であるということを理解させることが出来ました。それはとても簡単なことでした。現物を見せれば理解してもらえたのです。彼らは日本のコロタイプ印刷がどういうものであるのかということを直接に見ることがなかったのです。直接見れば、それは、彼らが素晴らしいと言っているフォトグラビアによる作品と比べてと何の遜色もない、ある意味ではそれ以上のクォリティを持っている印刷物が、まさに「オリジナル・プリント」として目の前にあるということを十人が十人、見れば一発で理解してもらえたという経験をいたしました。それ故に、今や日本の大正時代を中心とするコロタイプの印刷物は「オリジナル・プリント」として世界的にも認知され、様々な美術館で展示するという機会を、正当に展示するという機会を得ることが出来たのです。

 冒頭に、私の極めて個人的な事を話をさせていただきました。実はこの個人的な気持が「コロタイプ150年の歩み│日本はコロタイプの国である」というやたら大声で叫んでいるようなタイトルにしているのです。それは、今言いました私の経験から発していることです。日本はコロタイプの国なんです。残念ながらフォトグラビアの国ではありません。グラビア印刷の国になるのは戦後になってからであります。まず写真印刷の歴史はどういうものであるのか、ということについて簡単にお話をさせていただいて、そのなかでコロタイプという技術がどういうものであるのかということをお話しさせて頂きたいと存じます。

 年表に沿ってお話をさせていただきます。まず、最初の「1822年 ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(仏)がカメラによって得られる像の定着に成功して〈ヘリオグラフィー(Heliographie)〉と名づける」。露出時間、約八時間かかる撮影法です。感光材料としては、アスファルトピッチというもの、現像にはラベンダーオイルを使います。それは、腐食させればそのまま写真の凹版の製版が出来るのです。つまり、これはよく言われることですが「写真術の始まりは写真印刷術の始まりである」というのは、このヘリオグラフィーを始まりとするとそうなります。その後1839年のダゲレオタイプ(銀板写真)の発明、1841年のタルボットの紙ネガ/ポジ法の特許というところでいわゆる写真術の発明は確立していきます。(略)いわゆる写真というもの、銀塩の写真というものは保存性が悪い。それは写真術が発明された当初から分かっていたことでした。(略)

 それではどうすればよいか。ピグメントに置き換えればいい。ピグメントはそれこそずっと、千年という歴史の中でその耐久性はすでに証明されているので今さら強制劣化試験なんかする必要もありません。千年のモノがすでにあるわけです。だから銀がダメならインキにしよう、というところからダゲレオタイプを製版して画像を作るとか、タルボットが腐食鋼板を版とするフォトグリフィック法など様々なものが考案され、凹版、平版、凸版とつながっていきます。そのなかで、いわゆる平版の写真印刷技術として確立しするのは、1869年ドイツのヨセフ・アルベルトが発明し、完成させたコロタイプ法であります。⇒参照「コロタイプとは?」 

 このコロタイプ法は、混ぜると光に対して感光性を持つ、いわゆる光に当たったところが硬くなり、光に当たらなかったところは柔らかいままで残るという状物質と重クロム酸カリ、重クロム酸アンモニウムなどの重クロム酸塩の混合物がもつ原理、現象を利用したものです。それを1855年に発見したのがアルフォンス・ポワトヴァンという人であります。つまり写真の製版は全てこのポワトヴァンから始まるといっても決して言い過ぎではないと思います。

 そして、そのヨセフ・アルベルトのコロタイプ法の完成から10年後、1879年カール・クリッチェ、チェコの人ですけれども、その人がアスファルト粉末を使ったフォトグラビア(撒粉式グラビア印刷)法を完成させます。そしてその次の年にアメリカ人のS・H・ホーガンが、スクリーン(網版)を使った写真網目版法凸版を考案します。大体19世紀、1880年代で平版、凹版、凸版の写真印刷技術、しかもスクリーンを使ってという現在の写真印刷の基本的な枠組みというのは出来たようです。

 この時代はもう一つ大きい「写真の技術」ということで考えると、ゼラチン乾板が出来て、その工業化、産業化が行なわれていく時と丁度重なっていきます。ですからまさにここで写真術というもののインフラが大きく転換するという時代に、写真印刷術の基本的な技術の枠組みも大体出来上がってきた、と考えてもよろしいのではないでしょうか。

 そして、では日本ではどうだったのか、という話になります。1862年、日本で、厳密に言うと二番目ですけれど、長崎で営業写真館を開いた上野彦馬という人がいます。その人が書いた『舎密局必携』という本があります。これは、今風な言い方をすれば「化学ハンドブック」というものであります。その本のなかで写真の撮影技術、コロジオン湿板による写真の撮影技術、「撮形術 ポトガラヒー」という附録がつき、さらにその附録として「写真石版法」がそこに載っております。ですが、実際に彦馬がやっていたのかということの事跡は残念ながらわかりません。(略)

 そしてその写真石版という技術ですが、これはいわゆる網版を使わないでしかもレチキレーションも使わないで諧調を出そうとする技術なんです。しかし、残念ながら安定しません。つまり白黒だけの線画というんでしょうか、線画を作る分には明快な技術なんですけれど、つまり写真のグラデーションを出すには非常に困難なものでありました。これは日本のみならず、世界的にも写真の諧調を印刷する技術としてこの写真石版法というのは安定した技術へと発達をしておりません。

 そしてそれが改良されるというか、それではないもう一つの技術がコロタイプです。小川一真がコロタイプ印刷を日本に導入します。その他にもほぼ同じ時期にコロタイプの印刷を研究したという人は沢山おります。光村利藻もその一人であります。小川一真のその技術というのは、やはりアメリカ仕込みということもありまして圧倒的な技術力を持っておりました。非常に安定した技術ということです。

 つまり、印刷技術がもちろん一枚を作るということ以上に、同じものをどれだけ大量に作れるかということはとても重要なことです。先程申しましたように、写真の印刷「photography in ink〈印刷された写真〉」は先ず最初に保存法として考えられましたが、同時に大量複製技術としてのポテンシャルを持つものであるということにすぐ気が付くわけです。そう考えた時にその複製技術は印画紙に焼き付けることとは桁が違う。印画紙だったら10枚単位なのが印刷ならば100枚単位。今では何百万という単位を瞬時に、というのは大げさな言い方ですけれど、短い時間に大量に複製を作ることが可能になっています。そういうポテンシャルを持つ技術である、と見ることは重要な見方ではないかと思います。それがどれだけ安定して、いつも同じようにできるか。写真術というのは実験ではなく、常に実用的な技術、安定した技術として発展し、世の中を変えて来ていると思います。

国華
『國華』創刊号 小川一真によるコロタイプ図版「興福寺 無著像」

 そして岡倉天心やフェノロサなどと関わって、小川一真は1889年に、美術雑誌『國華』を創刊します。その一番最初が有名な興福寺の「無著像」。写真はもちろん小川一真自身によって撮られたものであります。そして日本のコロタイプの印刷技術というものが、小川一真によって非常に高いレベルが作り出されたということは認めていいことではないかと思います。(略)

 この会場の前の方に日清戦争、日露戦争のアルバムが並べてあります。日清戦争はコロタイプです。日露戦争は写真網目版で、日清戦争は十九世紀の戦争、日露戦争は20世紀の戦争でありまして、この日露戦争の直前に小川一真はアメリカに行き、写真網目版の技術を学んでまいります。そして日露戦争の写真帖を次々と発刊をしていきます。日清戦争の時代と日露戦争の時代は何が違うか。コロタイプと写真網目版の違いというのは何か、ということですが、先ず、決定的に部数が違う。コロタイプ印刷だと百単位、それに対して網目版はいうまでもなく千単位、万単位が元々可能な写真印刷の技術であります。それともう一つ、写真網目版はつまり凸版ですから活字と一緒に印刷することが出来る。今日につながる視覚メディアというものを可能にする、そういうものを生み出していったといっていいのではないでしょうか。(略)

 そして冒頭に私の個人的な経験、ということで申し上げた芸術写真の問題でございます。その芸術写真というものは、オリジナル・プリントを第一義とするもので、印刷物として写真を見せるのではなく、1枚の印画紙に焼き付けたもの、もしくはピグメント印画法で手作りで作られたものそのものを見せるということで成立をしていると言っていいでしょう。絵画の規範を写真に持ち込む、となった時に、当然の如く絵画の持っている1点制作、つまりタブローというものが写真の中に持ち込まれたと言っていいのではないかと思います。そういった、プリントがそこにあるわけでございます。

 しかしそれは、展覧会では見せることは出来るけれど雑誌や本という形の中では不可能であります。ところが1920年代の終わりから1930年代に始まる近代写真においては写真の機械性が注目されることによって最初から写真印刷物、写真集というものがオリジナルなものとして考えられていくということがあるわけですけれども、ピクトリアリズムの芸術写真の時代は、そういうことではございません。まだまだ1枚1点主義と言っていいと思います。そういう中でコロタイプによる写真印刷というものがまさにその芸術写真というものの再現する一番最適で優れた技術として使われていきました。
 
 【表】に「『写真例題集』(桑田商会)が1904年月例の懸賞写真募集を目的に創刊される。(コロタイプ印刷は桑田商会による)」と書いているところがあります。その『写真例題集』も本日持ってまいりました。『写真例題集』、これは懸賞募集なのです。毎月お題が出るんです。「日の出」とか「海」とか「来月は○○です」と。そうするとアマチュア写真家達はそれに応募します。それで1等、2等と入選すると撮影原板を提出するんです。その当時ですと通常は、ガラス乾板です。つまりガラス乾板からダイレクトに製版して印刷です。撮影原板なんです。つまり、印画紙に焼き付けたオリジナルを複写してそれを印刷するのではない。そういう注意書きがあるんですね。ガラス乾板を送れ、と。送れない場合は焼き付けたプリントでもかまわない、ただその時は出来が悪くても文句を言わないでね、と。つまりこの『写真例題集』においては、ネガ(原板)があってそれからプリントを作るということとネガがあってそれからコロタイプを作るっていうことが全く同列のものとして考えられていました。このような考え方が日本のコロタイプ印刷のなかの根底に、芸術写真に係わる人たちの間で決定的に成立をしていたということはとても大事なことではないかと思います。

 つまり芸術写真のプリントは、印画紙に焼き付けてもピグメント印画法であっても基本的に1点主義です。しかし実はコロタイプという技術を獲得することは、最初から五百、千とか複数存在することを可能にする芸術写真の写真芸術のプリント法として、明治の終わりに持つことが出来たということは、その後の日本の芸術写真の印刷物を見る上でとても重要なことになっていくのではないかと思います。

金子先生2

 そしてその隣に並べてありますのが1914年に刊行された『湖北 写真印画集』です。飯田湖北というこれは東京の人です。奥付に飯田鉄三郎と書いてございますがこれは飯田湖北の本名でございます。言ってみれば自費出版というものですね。コロタイプ印刷は桑田商会によっています。これも関西です。

 そして1922年、福原信三が写真作品集『巴里とセーヌ』(写真芸術社)を刊行し、先程申し上げました1922年に淵上白陽が写真雑誌『白陽』(白陽画集社)を創刊します。(略)いわゆるチップイン方式、図版を刷ってそれを本紙に貼り付けてそしてそれを雑誌で紐で綴じてある。もしくはホッチキスで綴じてあるという写真雑誌であります。さっと見ていただくだけでも、そのコロタイプ印刷のクォリティーが非常に高いものであり、そのオリジナルプリントの持っているその良さというものをダイレクトに伝えていると私は思います。(略) 

 そして今、私はピクトリアリズムの芸術写真というものの技術として、このコロタイプ印刷の持っているポテンシャルを日本は獲得し、それを推進してきた、というようなお話をしたつもりでございます。いわゆるピクトリアリズムの芸術写真というものは、1920年代の終わりから30年代に始まるその当時、日本では新興写真と言われた近代的な写真表現の動向の中で否定されます。それは「写真の本質に帰れ」という言い方でいいと思います。つまり、写真だけにしか出来ない表現を目指せ、ということであります。それはレンズのシャープな描写力、ゼラチンシルバープリントの印画紙が持っているマチエールと諧調、そして早いシャッタースピードで瞬間を留めることができる等々、写真だけにしか出来ない技術。それこそが写真表現のこれからの未来を切り開くものだ、という風に言った時に、絵画の真似をしている芸術写真というのはとんでもない噴飯物に見えるわけです。「あいつらは間違っている」と。あるいは「写真の本質を忘れた退廃である」という風にして。

 日本だけではございません。世界中でピクトリアリズムを標榜した芸術写真というものが否定され、その後の新しい近代的な写真表現というものが今に至るまで続いていると言っていいと思います。ではその近代的な写真表現というなかで、いわゆる写真の印刷技術というものはどうであったのか、ということです。コロタイプの印刷は、まさにその芸術写真の技術と共に歩んできたと言っていいと思います。
 
 フォトグラビア(撒粉グラビア)というものはなぜか日本では発達せず、いわゆる輪転グラビア、メディアと非常に結びついた印刷技術として日本では始まっていきます。グラビア、あのグラビアアイドルのグラビアです。ですから「グラビア」と言った時には、大量に複製される雑誌の口絵という印象がありました。グラビアページと言った時に日本人はそう思いますよね。こう思うのはどうも世界的に見て日本人だけのようです。外国の人はグラビアページと言っても、我々のような認識は持たないようです。それは、欧米ではグラビア印刷は一点一点のアートとして、オリジナルプリントとしてのフォトグラビアを経て大量生産の近代的なグラビア印刷に展開していくということがあるわけですが、日本では、いきなり雑誌の口絵のかたちでメディア化されたところから始まっているからではないかと思います。

 それに対して、写真網目版つまり写真凸版、銅の凸版で、日本ではこれを原色版という言い方をしますが、原色版による印刷術は、ずっと写真芸術の表現を伝える印刷技術として明治から使われてきております。そのことがあったがゆえにではないかと思いますけれども、1930年代において東京を中心とした様々な新しい近代的な写真表現を推進していくようなものは写真凸版、多分原色版で刷られているものが多いです。

 1933年に出版された堀野正雄という人の『カメラ・眼×鉄・構成』も写真凸版で印刷をされております。そして同じく東京で『光画』という写真雑誌がございますが、これも原色版です。これは野島康三、木村伊兵衛そして芦屋の中山岩太、その三人が同人として創刊した雑誌です。これも原色版つまり写真凸版で作られています。写真凸版は非常に明快な、メリハリの効いたトーンを再現することが可能であるという認識を当時持っていたようであります。それ故に、そういった新しい近代的な写真表現を代表するような作品を印刷するにふさわしい技術として使われておりました。

 ところがその同じ年に出版された、近代的写真表現を代表する浪華写真倶楽部の小石清の『初夏神経』という写真集があります。これは実はコロタイプで刷られています。つまり、コロタイプの印刷が近代的な写真表現というものが持っている機械的な再現性、そういったものまでも含みうるそういうパワーを、実はポテンシャルを持っているということをもっと認識しなくてはいけないのではないかと思いました。

 実際、このコロタイプというのが、私の中ではずっとピクトリアリズムの写真表現と分かちがたく結びついていて、その後の近代的な写真表現に替わったときにはそれは捨て去られていくもの、と思っておりました。東京ではそうでした。でも関西ではそうではなかった。実はこれはこの講演のお話をするために色々調べていくなかで気が付いたことなんです。残っているコロタイプのものをいくつか見ると、東京では全部新しい写真凸版やグラビアにどんんどん変わって行くのに、関西ではコロタイプがずっと残り、様々な近代的な写真表現を印刷する技術として使われているということがとても興味深く思いました。これがなぜかということについては全く分かりません。ただ、そういったようなことが目に付いた、ということを今ここではお話することが出来るだけであります。

金子先生6
右より、飯田湖北『湖北 写真印画集』、福原信三『巴里とセーヌ』、淵上白陽『白陽』、小石清『初夏神経』

 でもこの小石清の『初夏神経』、めちゃめちゃにウルトラモダンです。だって表紙がアルミの金属です。スパイラル綴じ。写真はたった10点しか入っていない。大体300部くらいしか作られていない本であります。今日、そのオリジナルも持ってきてありますので是非、手にとって見ていただきたいと思います。コロタイプ印刷なんです。でもコロタイプ印刷でありながらハイコントラストが非常に強い。一枚目の写真がそうなんですけれど、黒と白のパカッと分かれた調子を再現しております。実際、そういうインパクトの強いイメージこそが近代的写真表現を代表する表現技法であるとして、多くの人がハイコントラストやブレ、フォトグラムを使っております。コロタイプがそういう技術、表現というものを十二分に伝えうる印刷技術としてのポテンシャルを持っていたということを証明しているということは、今とても重要なことではないかと思います。

童暦
植田正治『童暦』コロタイプポートフォリオ

 今日皆さんの周りにフレームに入れられた植田正治さんの『童暦』のコロタイプによるポートフォリオが並んでおります。このポートフォリオ制作にあたって、監修というかお手伝いをさせていただきました。その時には「植田正治が生きていたらきっと喜んでコロタイプ印刷でポートフォリオを作ろうっていうよね」という非常に単純なのりで「やろうやろう」と乗った口であります。実際にやってみて、見ていただければ分かると思いますけれど、私はむちゃくちゃな要求を致しました。訳の分からない無理な要求としてきっと現場の方はむっとされたと思います。そんな要求に対して私がこれは、と思ったようなかたちで、もしくはそれ以上のレベルでクリアして、説得力のある印刷物になったのがこのポートフォリオだと思っております。

 それは「植田正治」という非常に限定的な適用だから可能とその時は思っておりましたが、今回のこのお話をさせていただく機会を得るなかで、もう一度色々調べたり、物を見たりする中で「待てよ」と。コロタイプという印刷技術というものは、小石清の『初夏神経』というウルトラモダンな写真集を十分に、十二分に支えた印刷技術であるという事を考えると、今日、コロタイプという印刷技術というものは、今日の現代アートと言われる写真表現、そういったものも十二分に支えうる、もしくはそれを推進するポテンシャルを持っているということを、今まさにここでこの私が並べたものを見ていただくことによって、少しでも理解していただけるのではないかと思っております。

 コロタイプの技術には、いわゆる過去の歴史のなかに素晴らしいものがあるということは確かです。でもその可能性、そのポテンシャル、潜在能力を今、私達がどれだけ引き出すことが出来るかということは、すごく問われていることなのではないかと思います。まさにこの「コロタイプ技術の保存と印刷文化を考える会」ということで皆さんここにおいでになっている訳ですけれど、この印刷文化を考えるのは、過去に向けて考えるのではなく、また今、その技術を保存するということを考えるのではなく、未来へ向けて考えなくてはいけないと思います。過去の歴史のなかでやってきたことを見れば今その技術というものがどれほど多くの可能性を持っているのかということが分かるはずだと思います。

 その「これからの可能性」ということを皆さんと一緒に考えていくことが出来たら私はとても嬉しいことであります。そして今日の私のこの話のタイトルで使った「日本はコロタイプの国である」ということについて、「違うよ」という方もあると思いますが、「恥ずかしいことをいうなよ」と言うかも知れませんが、やはり恥ずかしげもなく私は「日本はコロタイプの国である」と言いたいと思いますし、実際にそれは、特に外国のヨーロッパやアメリカの人達に是非声を大にして言いたいと思っております。そしてコロタイプという技術が、もっと大げさに言ってしまえば、人類が作り出したこの技術というものを私達が今後、どのように伝えていくのかという事以上に、使っていくのか、どのように使いこなせるのかということが問われているのではないかと思っております。

 大変慌ただしく、また的を絞りきれないような話で大変恐縮でございましたが、以上を持ちまして私の話を終わりにさせていただきます。(2010年12月11日 於 京都府庁旧本館)

【 表 】写真印刷年表─コロタイプ印刷をめぐって
1822年 ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(仏)がカメラによって得られる像の定着に成功して「ヘリオグラフィー(Heliographie)」と名づける。
1839年 ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(仏)が発明したダゲレオタイプ(銀板写真)がパリの学士院で公表される。
1841年 ウイリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(英)が発明したカロタイプ(紙ネガ/ポジ法)の特許が取得される。
1843年 イポリット・ルイ・フィゾーがダゲレオタイプを直接製版して写真を印刷するフィゾー法を完成させる。
1852年 タルボットが腐食鋼板を版とするフォトグリフィック(写真彫刻版)法の特許を取得する。
1855年 アルフォンス・ポワトヴァン(仏)が写真石版法を完成させる。
1862年 上野彦馬が『舎密局必携』の中で「写真石版法」を紹介する。
1864年 ワルター・B.ウッドバリーがウッドバリータイプを完成させる。
1869年 ヨゼフ・アルベルト(独)がコロタイプ法を完成させる。
1869年 下岡蓮杖がビジンから砂目石版術を学び、徳川家康像の製作に成功する。
1879年 カール・クリッチェ(チェコ)がアスファルト粉末を使ったフォトグラビア(撒粉式グラビア印刷)法を完成させる。
1880年  S.H.ホーガン(米)が網版を使った写真凸版法を考案して、「ザ・ニューヨーク・デイリー・グラフィック」紙に「シャンティタウン
(貧民街)」の写真を掲載する。
1889年 小川一真が、アメリカ留学で習得したコロタイプ印刷技術により、小川写真製版所を開業して、美術雑誌『國華』の写真図版を印刷する。
――― この頃、岩橋教章が、亜鉛板を使った写真網目版の印刷に成功する。
1893年 K.クリッチェが、白線スクリーンを使ったロト・グラビア(輪転グラビア)法を開発する。
1894年 『日清戦争実記』(博文館)が、小川の勧めによって写真網目版で写真口絵を掲載する。
1895年 陸地測量部撮影による写真集『日清戦争写真画』(小川一真)が刊行{コロタイプ印刷は小川一真写真製版所による}。
1902年 小川一真が『東京百美人 Geisha of Tokyo』を刊行{コロタイプ印刷は小川一真写真製版所による}。
1903年 イラ・W.ルーベル(米)が、オフセット印刷法を開発する。
    アルフレッド・スティーグリッツの編集で写真雑誌『カメラワーク Camera Work』が精巧なフォトグラビア印刷で創刊される。
1904年 『写真例題集』(桑田商会)が月例の懸賞写真募集を目的に創刊される{コロタイプ印刷は桑田商会による}。
1905年 便利堂がコロタイプ印刷所を京都、新町通竹屋町に開設する。
1906年 『写真月報』1月号(第11巻第1号)に結城林蔵がフォトグラビア法の見本として渡辺進撮影による「肖像」を凸版印刷合資会社の印刷
    で掲載する。
1909年 ヒューブナー・W.カール(米)が、平版印刷法による多色写真製版法のHBプロセスを完成させて特許を取得する。
1913年 アルヴィン・ラングドン・コバーンが写真集『Men of Mark』(Duckworth &Co.)を刊行{フォトグラビア印刷はThe Ballantyne Press,
Londonによる}。
1914年 飯田湖北が写真作品集『湖北印画集』(飯田鉄三郎)が刊行{コロタイプ印刷は桑田商会による}。
1920年 HBプロセスが大手印刷会社6社により輸入される。
1921年 「朝日グラフィック」(大阪朝日新聞社)が、ロト・グラビア法を使い、同紙の日曜版付録として週刊で創刊される。
1922年 福原信三が写真作品集『巴里とセーヌ』(写真芸術社)を刊行。
    淵上白陽は写真雑誌『白陽』(白陽画集社)を創刊(コロタイプ印刷は細谷真美館による)。
1930年 写真集『アジェ パリの写真家 Atget Photographe de Paris』(Jonquiers)がコロタイプ印刷で刊行される。
1933年 小石清が写真作品集『初夏神経』(浪華写真倶楽部)を刊行{コロタイプ印刷は細谷真美館による}。



プロフィール

takumi suzuki

Author:takumi suzuki
【コロタイプの過去・現在・未来。創業明治20年の京都 便利堂が100年以上にわたって続けているコロタイプ工房より最新の情報をお届けします】
Japanese:www.benrido.co.jp
English:www.benrido-collotype.today

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