Loading…
法隆寺金堂壁画ガラス乾板保存プロジェクト②
昭和10年撮影の原寸大分割写真原板ほか一式、ついに国指定重要文化財へ!

本日、文化庁より「文化審議会は、3月13日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、2件の美術工芸品を国宝に、39件の美術工芸品を重要文化財に指定することについて、文部科学大臣に答申しました」という発表がありました。⇒ 「文化庁 報道発表」
法隆寺金堂壁画のガラス乾板は、「歴史資料の部」8件のうち2件として重要文化財に指定される見込みとなりました。報道発表の指定理由を引用させていただきます。
◎法隆寺金堂壁画写真原板 八十三枚(便利堂所蔵)
「昭和10年(1935年)に、文部省法隆寺国宝保存事業部の事業として撮影された、法隆寺金堂壁画12面の写真原板群の
うち、各面全図写真原板、四色分解写真原板(原色図版用)、赤外線写真原板である。特に四色分解写真原板は、壁画焼損前の彩りを伝える唯一の原板として貴重であり、古代東アジアを代表する仏教絵画である法隆寺金堂壁画の最も高品質な写真原板であるため、学術的価値が高い。」
◎法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 三百六十三枚(法隆寺所蔵)
「昭和10年(1935年)に、文部省法隆寺国宝保存事業部の事業として撮影された、法隆寺金堂壁画12面の写真原板
群のうち、原寸大分割写真原板である。全紙規格の大型撮影機を使用し、高い撮影技術を駆使して細部に至るまで、巨大な壁画の精緻な記録を作成することに成功したもので、後に模写作成の基礎資料としても活用された。国宝保存法下における国直営の国宝保存事業の成果であり、古代東アジアを代表する仏教絵画である法隆寺金堂壁画の最も高品質な写真原板であるため、学術的価値が高い。」
同壁画のガラス乾板保存プロジェクトとして活動してまいりましたひとつの大きな成果として非常にうれしく思っております。しかしながら、この原板ならびにうつされた画像をどう後世に遺していくのが良いのか、どのように利活用していくか、まだまだ課題は多くあります。これを励みとして引き続きプロジェクトに取り組んでいきたいと考えています。
昭和10年の撮影原板について、ならびにこれまでのプロジェクトの取り組みについて詳しくは下記にて
⇒ 「法隆寺金堂壁画とコロタイプ」
⇒ 「法隆寺金堂壁画ガラス乾板保存プロジェクト①」
■第2回調査委員会(2015年2月20日開催)
第1回調査委員会(2012年6月19日開催)以後、足かけ3年にわたって調査を重ねてきた結果報告として、第2回調査委員会を2月に開催しました。お忙しい中、第1回と同じ有識者の先生方にお集まりいただき、調査結果の詳細報告ならびに今後の保存や利活用について討議いたしました。

■15日より「重要文化財指定記念 法隆寺金堂壁画写真原板展」開催!
この指定を記念して、便利堂コロタイプギャラリーでは明後日15日から「法隆寺金堂壁画展」を開催します。重要文化財指定を受けた写真原板より6点をはじめとし、昭和12年に制作したコロタイプ原寸大複製ならびに関係資料を多数展示します。ぜひこの機会にご来場ください。

「重要文化財指定記念 法隆寺金堂壁画写真原板展」
2015年3月15日(日)~4月5日(日) 会期中無休
開廊時間 11:00~18:00
場所 便利堂コロタイプギャラリー
京都市中京区新町通竹屋町下ル 便利堂京都本社1F
お問い合わせ 075-231-4351(代表)

本日、文化庁より「文化審議会は、3月13日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、2件の美術工芸品を国宝に、39件の美術工芸品を重要文化財に指定することについて、文部科学大臣に答申しました」という発表がありました。⇒ 「文化庁 報道発表」
法隆寺金堂壁画のガラス乾板は、「歴史資料の部」8件のうち2件として重要文化財に指定される見込みとなりました。報道発表の指定理由を引用させていただきます。
◎法隆寺金堂壁画写真原板 八十三枚(便利堂所蔵)
「昭和10年(1935年)に、文部省法隆寺国宝保存事業部の事業として撮影された、法隆寺金堂壁画12面の写真原板群の
うち、各面全図写真原板、四色分解写真原板(原色図版用)、赤外線写真原板である。特に四色分解写真原板は、壁画焼損前の彩りを伝える唯一の原板として貴重であり、古代東アジアを代表する仏教絵画である法隆寺金堂壁画の最も高品質な写真原板であるため、学術的価値が高い。」
◎法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 三百六十三枚(法隆寺所蔵)
「昭和10年(1935年)に、文部省法隆寺国宝保存事業部の事業として撮影された、法隆寺金堂壁画12面の写真原板
群のうち、原寸大分割写真原板である。全紙規格の大型撮影機を使用し、高い撮影技術を駆使して細部に至るまで、巨大な壁画の精緻な記録を作成することに成功したもので、後に模写作成の基礎資料としても活用された。国宝保存法下における国直営の国宝保存事業の成果であり、古代東アジアを代表する仏教絵画である法隆寺金堂壁画の最も高品質な写真原板であるため、学術的価値が高い。」
同壁画のガラス乾板保存プロジェクトとして活動してまいりましたひとつの大きな成果として非常にうれしく思っております。しかしながら、この原板ならびにうつされた画像をどう後世に遺していくのが良いのか、どのように利活用していくか、まだまだ課題は多くあります。これを励みとして引き続きプロジェクトに取り組んでいきたいと考えています。
昭和10年の撮影原板について、ならびにこれまでのプロジェクトの取り組みについて詳しくは下記にて
⇒ 「法隆寺金堂壁画とコロタイプ」
⇒ 「法隆寺金堂壁画ガラス乾板保存プロジェクト①」
■第2回調査委員会(2015年2月20日開催)
第1回調査委員会(2012年6月19日開催)以後、足かけ3年にわたって調査を重ねてきた結果報告として、第2回調査委員会を2月に開催しました。お忙しい中、第1回と同じ有識者の先生方にお集まりいただき、調査結果の詳細報告ならびに今後の保存や利活用について討議いたしました。

■15日より「重要文化財指定記念 法隆寺金堂壁画写真原板展」開催!
この指定を記念して、便利堂コロタイプギャラリーでは明後日15日から「法隆寺金堂壁画展」を開催します。重要文化財指定を受けた写真原板より6点をはじめとし、昭和12年に制作したコロタイプ原寸大複製ならびに関係資料を多数展示します。ぜひこの機会にご来場ください。

「重要文化財指定記念 法隆寺金堂壁画写真原板展」
2015年3月15日(日)~4月5日(日) 会期中無休
開廊時間 11:00~18:00
場所 便利堂コロタイプギャラリー
京都市中京区新町通竹屋町下ル 便利堂京都本社1F
お問い合わせ 075-231-4351(代表)
法隆寺金堂壁画ガラス乾板保存プロジェクト①
昭和10年撮影のガラス乾板調査開始!

予備調査(平成24年2月27・28日実施)
【プロジェクト設立への経緯】
昨年6月に岩波書店から刊行された『原寸大コロタイプ印刷による 法隆寺金堂壁画選』の制作作業にあたり、原寸大乾板一式を約40年ぶりに法隆寺収蔵庫より借り出しました。その際、法隆寺様からこの乾板の保存についてどうしていったらよいかというお話もでていました。制作作業を終え、原板のご返却をしなければなりませんが、この40年前の保管状態のまま再び収蔵庫に戻してしまって果たしてよいものかという思いがつのることとなりました。この間一度も移動や開封されることがなかったことから、今回納めてしまえばまた相当長期間にわたり今の状態で留め置かれることは必至と思われるため、この機に何らかの出来うる限りの保存策を施すべきと考えて今回のプロジェクトを立ち上げるに至りました。⇒法隆寺金堂壁画と原寸大ガラス乾板について詳しくはこちら

ガラス乾板を法隆寺収蔵庫で40年ぶりに開封し確認したときのもよう
【プロジェクトの意義と目的】
昭和24年の法隆寺金堂壁画の焼損は、現行の文化財保護法制定の契機となった重大な出来事です。そして昭和10年に壁画を記録した便利堂撮影の原寸大分割原板をはじめとする一連のガラス乾板は、その焼損前の現物の姿をうかがい知ることができる「唯一無二」の貴重な文化的資料です。
しかしながら、これらは撮影からすでに80年近くが経過し、経年変化や保存環境による原板の劣化が非常に危惧される状況となっています。近年、写真や映画のフィルムを近代遺産・文化財として保存しようという動きはますます活発になっていますが、この金堂壁画原板も保存し後世に遺すべき貴重な文化財であることは言を待たないでしょう。また、文化財保護の原点となったシンボルとして次世代に受け継がれることの意義は大きいと考えます。
本プロジェクトは、この「法隆寺金堂壁画焼損前記録写真(仮称)」ガラス乾板について、よりよい保存継承のあり方を検討し実施することを目指すものです。
今回は担当の小鮒さんよりプロジェクトの取組みについて報告してもらいます。題して『小鮒ノート』です。
『小鮒ノート』 その1

プロジェクト担当の小鮒です
◎予備調査での発見(平成24年2月27・28日実施)
このプロジェクトは、ご専門である金子隆一先生(東京都写真美術館専門調査員)のご指導をいただき進めています。先生からは、まず原板の詳細な調査報告書の作成が必要とのご助言をいただきました。そこで、今年2月下旬に予備調査として金子先生に実際に原板の状態をご覧いただきながら調書作成に向けて調査内容の確認作業を行いました。
普段東京にいる私は、貴重な原板を実際に目にすることができる!とドキドキしながら新幹線に乗り込みました。本社の写真工房にずらりと並ぶガラス乾板の箱を見ただけでも気分が跳ね上がりましたが、2日間で行ったこの予備調査で、たくさんの発見をすることになりました。
保存対象となりうる一連の写真資料のうち、昭和10年に撮影したものは大きく分けて次の通りです。
1)原寸大分割撮影ガラス乾板(全紙)362枚
2)4色分解撮影ガラス乾板(全紙、半切)56枚
3)赤外線撮影フィルム(全紙)13枚 *今年原版庫より発見される
原寸大分割撮影原板は、撮影ガラス乾板の膜面部分をはがした後、裏返して貼りかえた「コロタイプ原版」になっています。事前に言葉では聞いてはいたもののうまく想像できず、本社で現物を見て初めて「こういうことか」と思ったのでした。金子先生にも私の言葉で伝えていたため、先生も現物を見てびっくりされていました。「撮影原板でもあり、印刷用の原版でもある」ものは、金子先生もこれまで見たことがなく、写真印刷技術史上類例を見ないものと言って良いのではないかとのことでした。
一般的に、ガラス乾板の厚みはカメラに入る1~2mmですが、この原板は厚さ5mmのガラス板に貼りかえてあります。ガラス乾板の膜面をはがすのは、傷つけるリスクなどから基本的にはしないそうで、複版を作る際に厚いガラスに貼り付けることはあるようですが、原板そのものを貼りかえているのは非常に珍しいそうです。当時から「割れないように」という意識のもとに、永久保存を考慮した重要なものとして扱われたことが想像できるという金子先生のご意見もありました。

また、先生のお話しの中で印象に残っているのは、撮影原板の「板」と、コロタイプ原版の「版」の字を区別して使うということでした。「原板」は写真に使うための板、「原版」は印刷に使うための版と区別されますが、今回の場合は同じものを指して両方の特徴を持つものということになります。なんと名づければこのガラス乾板を指すものとなるか、これについてはもう少し考える必要がありそうです(この時は、例えば「撮影原板膜面返しコロタイプ原版-法隆寺金堂壁画原寸大-」という長くややこしい名前があがっていました)。
貼りかえる際に膜面を裏返していますが、コロタイプではネガをガラス版に焼き付けて印刷用の刷版を作るため、正像→左右反転像→正像となります。よって、コロタイプ原版は膜面側から見て正像になっている必要があるため、膜を貼りかえる際に裏返しているという特徴があります。コロタイプで印刷するからこその形となっていることが分かりました。

原板の状態は、思っていた以上に良好でした。しかしよく見ると、膜面の表面がテカテカしすぎていて銀塩の膜にしては不自然では?と金子先生のご指摘があり、弊社写真工房のカメラマンも同意見ながら、何故なのかはすぐに分からず・・・コロタイプ工房の職人に話を聞いてみると、全体にセロファンが貼り付けられていることが分かりました。コロタイプでは、製版作業を行う際に、フィルムに直接食紅を塗る等の手を加えるため、フィルムの上を一度セロファンで保護するやり方があるそうです。このセロファンは、四方をマスキングテープで留められています。「膜面裏返し」「セロファンによるカバー」「四方マスキング」を施していることが酸化を防ぐ結果となり、約40年間特別な保存環境ではなかったにも関わらず、基本的に良好な状態が保たれていると考えられます。
この予備調査をうけ、今後調査を進めるにあたり、調査内容を学術的客観的に審議し、保存方法について検討する委員会を組織することが必要と考え、有識者の先生方にご参画をお願いし調査委員会を発足しました。
◎第1回調査委員会(平成24年6月19日開催)
第1回調査委員会では、金子先生立ち会いのもと行われた事前調査の状況報告とともに、各先生方からのご意見をいただきました。様々なご意見、ご助言をいただく中で、写っている壁画の歴史資料としての価値はもちろんのこと(しかもそれが原寸大でもある)、写真技術を考えるうえでの価値、印刷技術史の中で捉えても価値のある資料であることを再認識しました。

第1回調査委員会(平成24年6月19日開催)
左手前より奥に右回りで、金子隆一先生(東京都写真美術館専門調査員)清水眞澄先生(三井記念美術館館長)鈴木嘉吉先生(本調査委員会委員長・元国立奈良文化財研究所所長)青柳正規先生(国立西洋美術館館長)有賀祥隆先生(東北大学名誉教授)
◎8月8日-9日の調査の様子
予備調査の後、調書のフォーマット作成など調査開始に向けて準備を進めてまいりましたが、いよいよ原板一枚一枚の調査を開始いたしました。1日目は金子先生に立ち会いをお願いし、調査の流れを再度確認しながら作業を進行しました。原寸大分割撮影のガラス乾板を例に取ると、大まかな作業の流れは以下のようになります。

カメラのセット
原版の状態を写真で記録するためヴューワーの上にカメラをセットします。原板をヴューワーにのせ、乳剤面とベース面をそれぞれチェックします。まずは乳剤面からイメージ(画面)の確認のため、透過光で壁画該当部分を印刷物と比較します。調書のチェック項目に従って透過光、反射光それぞれで詳細に見ていきますが、前述したように、原寸大分割撮影の原板は、撮影原板でもありコロタイプ原版でもあるという極めて稀な形から、調書の項目には特殊なものも含まれます。

採寸

採寸(厚み)
チェック項目として、寸法(縦、横、厚み)ガラス板の破損状態、イメージ部分への傷や異物の混入、シルバーミラーの程度、カビやシミの有無などともに、コロタイプ原版であるがゆえの項目として、膜面を覆うセロファンを止めているマスキングテープの裂け、及び裂け部分からの空気の入り具合のチェックが重要となります。また、セロファンで覆う作業にともなうスキージーの跡や、修正のために使用した食紅の跡が残っているかどうかなども併せてチェックしていきます。

シルバーミラー

シミ

セロファンの傷

カビ

テープの裂けによる空気入

食紅の乗っている部分(反射光)

同部分を透過光にすると画像の抜けている部分のためマスキングをしたことが分かる
この2日間では、原寸大分割撮影のガラス乾板のうち6号壁の41枚全点と、赤外線撮影の全紙フィルム12枚、4色分解撮影の全紙ガラス乾板6号壁4色分・4枚の調査を終えました。原板を傷つけないよう慎重に作業を進める中、厚みを測る際には特に集中が必要となりました。そのような中、コロタイプ原版作成時の痕跡がうかがえるのが、セロファンを貼る際のスキージーの跡ですが、6号壁の中でも中尊の阿弥陀様のお顔や、勢至菩薩様のお顔部分などは、スキージー跡がほとんどない綺麗な状態で、重要な部分には気合が入り、より丁寧な作業になるのだろうかと想像させる面白い発見もありました。
80年近く前に誕生した現物を目の前にし、この場に自分が巡り合わせたことは大変貴重なことであり、時代を越えて資料が遺るということは、当時そこに関わった人たちの思いを想像させるなど、単にものが遺るだけにとどまらないことを改めて感じました。引き続き、便利堂コロタイプ工房の職人、写真工房カメラマンを中心に作業を進めてまいります(本日時点で原寸大分割原版はほぼ調査終了いたしました)。今月には報告書としてまとめたいと思っています。
また今後は、調査作業の進行とともに、原寸大フィルムによるアナログ複写とデジタルカメラによる複写という両手法での画像保存について、ならびに原板そのものの保管方法についても検討も進めていく必要があります。調査委員会の先生方を中心にご助言、ご指導をいただきながら、最良の方法を考えていきたいと思っております。

予備調査(平成24年2月27・28日実施)
【プロジェクト設立への経緯】
昨年6月に岩波書店から刊行された『原寸大コロタイプ印刷による 法隆寺金堂壁画選』の制作作業にあたり、原寸大乾板一式を約40年ぶりに法隆寺収蔵庫より借り出しました。その際、法隆寺様からこの乾板の保存についてどうしていったらよいかというお話もでていました。制作作業を終え、原板のご返却をしなければなりませんが、この40年前の保管状態のまま再び収蔵庫に戻してしまって果たしてよいものかという思いがつのることとなりました。この間一度も移動や開封されることがなかったことから、今回納めてしまえばまた相当長期間にわたり今の状態で留め置かれることは必至と思われるため、この機に何らかの出来うる限りの保存策を施すべきと考えて今回のプロジェクトを立ち上げるに至りました。⇒法隆寺金堂壁画と原寸大ガラス乾板について詳しくはこちら

ガラス乾板を法隆寺収蔵庫で40年ぶりに開封し確認したときのもよう
【プロジェクトの意義と目的】
昭和24年の法隆寺金堂壁画の焼損は、現行の文化財保護法制定の契機となった重大な出来事です。そして昭和10年に壁画を記録した便利堂撮影の原寸大分割原板をはじめとする一連のガラス乾板は、その焼損前の現物の姿をうかがい知ることができる「唯一無二」の貴重な文化的資料です。
しかしながら、これらは撮影からすでに80年近くが経過し、経年変化や保存環境による原板の劣化が非常に危惧される状況となっています。近年、写真や映画のフィルムを近代遺産・文化財として保存しようという動きはますます活発になっていますが、この金堂壁画原板も保存し後世に遺すべき貴重な文化財であることは言を待たないでしょう。また、文化財保護の原点となったシンボルとして次世代に受け継がれることの意義は大きいと考えます。
本プロジェクトは、この「法隆寺金堂壁画焼損前記録写真(仮称)」ガラス乾板について、よりよい保存継承のあり方を検討し実施することを目指すものです。
今回は担当の小鮒さんよりプロジェクトの取組みについて報告してもらいます。題して『小鮒ノート』です。
『小鮒ノート』 その1

プロジェクト担当の小鮒です
◎予備調査での発見(平成24年2月27・28日実施)
このプロジェクトは、ご専門である金子隆一先生(東京都写真美術館専門調査員)のご指導をいただき進めています。先生からは、まず原板の詳細な調査報告書の作成が必要とのご助言をいただきました。そこで、今年2月下旬に予備調査として金子先生に実際に原板の状態をご覧いただきながら調書作成に向けて調査内容の確認作業を行いました。
普段東京にいる私は、貴重な原板を実際に目にすることができる!とドキドキしながら新幹線に乗り込みました。本社の写真工房にずらりと並ぶガラス乾板の箱を見ただけでも気分が跳ね上がりましたが、2日間で行ったこの予備調査で、たくさんの発見をすることになりました。
保存対象となりうる一連の写真資料のうち、昭和10年に撮影したものは大きく分けて次の通りです。
1)原寸大分割撮影ガラス乾板(全紙)362枚
2)4色分解撮影ガラス乾板(全紙、半切)56枚
3)赤外線撮影フィルム(全紙)13枚 *今年原版庫より発見される
原寸大分割撮影原板は、撮影ガラス乾板の膜面部分をはがした後、裏返して貼りかえた「コロタイプ原版」になっています。事前に言葉では聞いてはいたもののうまく想像できず、本社で現物を見て初めて「こういうことか」と思ったのでした。金子先生にも私の言葉で伝えていたため、先生も現物を見てびっくりされていました。「撮影原板でもあり、印刷用の原版でもある」ものは、金子先生もこれまで見たことがなく、写真印刷技術史上類例を見ないものと言って良いのではないかとのことでした。
一般的に、ガラス乾板の厚みはカメラに入る1~2mmですが、この原板は厚さ5mmのガラス板に貼りかえてあります。ガラス乾板の膜面をはがすのは、傷つけるリスクなどから基本的にはしないそうで、複版を作る際に厚いガラスに貼り付けることはあるようですが、原板そのものを貼りかえているのは非常に珍しいそうです。当時から「割れないように」という意識のもとに、永久保存を考慮した重要なものとして扱われたことが想像できるという金子先生のご意見もありました。

また、先生のお話しの中で印象に残っているのは、撮影原板の「板」と、コロタイプ原版の「版」の字を区別して使うということでした。「原板」は写真に使うための板、「原版」は印刷に使うための版と区別されますが、今回の場合は同じものを指して両方の特徴を持つものということになります。なんと名づければこのガラス乾板を指すものとなるか、これについてはもう少し考える必要がありそうです(この時は、例えば「撮影原板膜面返しコロタイプ原版-法隆寺金堂壁画原寸大-」という長くややこしい名前があがっていました)。
貼りかえる際に膜面を裏返していますが、コロタイプではネガをガラス版に焼き付けて印刷用の刷版を作るため、正像→左右反転像→正像となります。よって、コロタイプ原版は膜面側から見て正像になっている必要があるため、膜を貼りかえる際に裏返しているという特徴があります。コロタイプで印刷するからこその形となっていることが分かりました。

原板の状態は、思っていた以上に良好でした。しかしよく見ると、膜面の表面がテカテカしすぎていて銀塩の膜にしては不自然では?と金子先生のご指摘があり、弊社写真工房のカメラマンも同意見ながら、何故なのかはすぐに分からず・・・コロタイプ工房の職人に話を聞いてみると、全体にセロファンが貼り付けられていることが分かりました。コロタイプでは、製版作業を行う際に、フィルムに直接食紅を塗る等の手を加えるため、フィルムの上を一度セロファンで保護するやり方があるそうです。このセロファンは、四方をマスキングテープで留められています。「膜面裏返し」「セロファンによるカバー」「四方マスキング」を施していることが酸化を防ぐ結果となり、約40年間特別な保存環境ではなかったにも関わらず、基本的に良好な状態が保たれていると考えられます。
この予備調査をうけ、今後調査を進めるにあたり、調査内容を学術的客観的に審議し、保存方法について検討する委員会を組織することが必要と考え、有識者の先生方にご参画をお願いし調査委員会を発足しました。
◎第1回調査委員会(平成24年6月19日開催)
第1回調査委員会では、金子先生立ち会いのもと行われた事前調査の状況報告とともに、各先生方からのご意見をいただきました。様々なご意見、ご助言をいただく中で、写っている壁画の歴史資料としての価値はもちろんのこと(しかもそれが原寸大でもある)、写真技術を考えるうえでの価値、印刷技術史の中で捉えても価値のある資料であることを再認識しました。

第1回調査委員会(平成24年6月19日開催)
左手前より奥に右回りで、金子隆一先生(東京都写真美術館専門調査員)清水眞澄先生(三井記念美術館館長)鈴木嘉吉先生(本調査委員会委員長・元国立奈良文化財研究所所長)青柳正規先生(国立西洋美術館館長)有賀祥隆先生(東北大学名誉教授)
◎8月8日-9日の調査の様子
予備調査の後、調書のフォーマット作成など調査開始に向けて準備を進めてまいりましたが、いよいよ原板一枚一枚の調査を開始いたしました。1日目は金子先生に立ち会いをお願いし、調査の流れを再度確認しながら作業を進行しました。原寸大分割撮影のガラス乾板を例に取ると、大まかな作業の流れは以下のようになります。

カメラのセット
原版の状態を写真で記録するためヴューワーの上にカメラをセットします。原板をヴューワーにのせ、乳剤面とベース面をそれぞれチェックします。まずは乳剤面からイメージ(画面)の確認のため、透過光で壁画該当部分を印刷物と比較します。調書のチェック項目に従って透過光、反射光それぞれで詳細に見ていきますが、前述したように、原寸大分割撮影の原板は、撮影原板でもありコロタイプ原版でもあるという極めて稀な形から、調書の項目には特殊なものも含まれます。

採寸

採寸(厚み)
チェック項目として、寸法(縦、横、厚み)ガラス板の破損状態、イメージ部分への傷や異物の混入、シルバーミラーの程度、カビやシミの有無などともに、コロタイプ原版であるがゆえの項目として、膜面を覆うセロファンを止めているマスキングテープの裂け、及び裂け部分からの空気の入り具合のチェックが重要となります。また、セロファンで覆う作業にともなうスキージーの跡や、修正のために使用した食紅の跡が残っているかどうかなども併せてチェックしていきます。

シルバーミラー

シミ

セロファンの傷

カビ

テープの裂けによる空気入

食紅の乗っている部分(反射光)

同部分を透過光にすると画像の抜けている部分のためマスキングをしたことが分かる
この2日間では、原寸大分割撮影のガラス乾板のうち6号壁の41枚全点と、赤外線撮影の全紙フィルム12枚、4色分解撮影の全紙ガラス乾板6号壁4色分・4枚の調査を終えました。原板を傷つけないよう慎重に作業を進める中、厚みを測る際には特に集中が必要となりました。そのような中、コロタイプ原版作成時の痕跡がうかがえるのが、セロファンを貼る際のスキージーの跡ですが、6号壁の中でも中尊の阿弥陀様のお顔や、勢至菩薩様のお顔部分などは、スキージー跡がほとんどない綺麗な状態で、重要な部分には気合が入り、より丁寧な作業になるのだろうかと想像させる面白い発見もありました。
80年近く前に誕生した現物を目の前にし、この場に自分が巡り合わせたことは大変貴重なことであり、時代を越えて資料が遺るということは、当時そこに関わった人たちの思いを想像させるなど、単にものが遺るだけにとどまらないことを改めて感じました。引き続き、便利堂コロタイプ工房の職人、写真工房カメラマンを中心に作業を進めてまいります(本日時点で原寸大分割原版はほぼ調査終了いたしました)。今月には報告書としてまとめたいと思っています。
また今後は、調査作業の進行とともに、原寸大フィルムによるアナログ複写とデジタルカメラによる複写という両手法での画像保存について、ならびに原板そのものの保管方法についても検討も進めていく必要があります。調査委員会の先生方を中心にご助言、ご指導をいただきながら、最良の方法を考えていきたいと思っております。
法隆寺金堂壁画とコロタイプ

法隆寺金堂壁画第6号壁「阿弥陀三尊二十五化生菩薩・童子図」 玻璃版複製12幅のうち 昭和12年制作
我が国ほど数多くの文化財が伝世品という形で遺されている国はありません。発掘品や偶然にのこったものではなく、先人達の確かな意思で伝えられてきたものがほとんどです。その中には写本として伝わっているものもあります。オリジナルは失われても、その精巧な写しがのこされたことになります。
文化財を未来へ伝えるためにコロタイプが活躍した最大の事例は法隆寺金堂壁画でしょう。オリジナルは昭和24(1949)年に惜しくも焼損してしまいましたが、昭和10(1935)年に原寸大で撮影された写真(ガラス乾板)が保存されていました。現在、法隆寺の金堂において私たちが目にすることができる壁画は、この乾板を使って刷られたコロタイプを下地として昭和42(1967)年に再現模写されたものです。今回はこの壁画の原寸撮影と玻璃版(コロタイプ)複製についてご紹介します。
法隆寺金堂壁画について
聖徳太子ゆかりの法隆寺は、国民のみならず世界の人々に認識された日本を代表する寺院です。金堂壁画は、外陣の柱間の大壁4面に四方四仏、小壁8面に菩薩が描かれた計12面および栱間壁の山中羅漢図・内陣の飛天の壁画もあわせると50面となります。大壁小壁12面は、『法隆寺壁画保存方法調査報告書』(大正9年・1920、文部省)で付された番号を踏襲し、第1号壁~第12号壁と呼ばれます。
壁画の制作年代は、金堂が建立された時期とも関連し、諸説ありますが、おそくとも西院伽藍の諸堂がととのう和銅4年(711)までに描き終っていたものと考えられます。壁画の様式や表現技法は、唐・敦煌莫高窟壁画(7世紀中頃から末)に淵源が求められますが、それに比しても金堂壁画には明快にして清冽な画趣がうかがわれ、高い画格と確かな技術力が看取することができます。堂々たる体躯を形造る鉄線描や、身体に密着して襞を重ねて濃い隈取で凹凸を表現する画法といった西域画の作風が、いち早くあたらしい表現方法としてわが国に受容され習得された結果といえるでしょう。

第1号壁「釈迦説法図」 玻璃版複製
霊鷲山で釈迦が『法華経』を説く場面を描いたもの。中尊の釈迦は施無畏・与願の通仏印を結び、右足を上に宣字座の上に結跏趺坐する。左右に薬王・薬上菩薩に比定される脇侍菩薩と、老壮に描き分けられた十大弟子が侍立する。

第2号壁「菩薩像」 玻璃版複製
円形の七重台座に、半跏に足を崩して左足を踏み下げ、右肘をついてやや前かがみに思惟する姿をあらわす。尊名
については諸説あって特定できない。図様は対面する第5号壁の「半跏形菩薩像」と同じ原型を反転して用いている。

第3号壁「観音菩薩像」 玻璃版複製
宝冠に化仏をいただき、右手に蓮池から生える長茎の蓮華を執る観音菩薩。南壁東横端に描かれ、その対称の位置
にある西端の第4号壁「勢至菩薩像」とは、やはり同一原型を反転した関係にある。

第12号壁「十一面観音像」 玻璃版複製
挙げた左手に蓮華、垂下した右手には瓔珞をとり、頭上に化仏をいただく9つの菩薩麺と頂上仏面をそなえ、本面
と合わせて十一面の観音像とする。向かい合う第7号壁の聖観音と同様に頭光と挙身光を負い、岩上の蓮華座に正
面向きで直立する。

第6号壁「阿弥陀三尊二十五化生菩薩・童子図」化生童子部分 玻璃版複製(全図は文頭)
『無量寿経』を典拠に、蓮池から生えた一茎蓮枝の上に、阿弥陀三尊と22体の化生菩薩と3体の化生童子を描く。ササン朝ペルシャ系織錦文で飾られた豪華な後屏を背に、転法輪印を結ぶ朱衣の阿弥陀如来を中心とした本図は、金堂壁画中、屈指の出来栄えを示すものとたたえられてきた。
昭和の大修理と原寸大撮影事業
昭和9年(1934)、文部省に「法隆寺国宝保存事業部」が設置され、国の事業として半世紀にわたる「法隆寺昭和の大修理」(〜昭和60年・1985)が始まります。壁画保存については明治時代からの懸案事項でしたが、まずは原寸大写真を撮影して現状を記録することに決定し、便利堂に委嘱されました。テストを経て翌10年8月から6人がかり75日間で原寸大モノクロ写真が外陣大小12面で374分割(全紙362枚)、赤外線写真が20枚以上撮影されました。この時に原色版用全図4色分解撮影も便利堂によって独自に行なわれました。

原寸大分割撮影カメラ(写真は模型) 昭和10年 六櫻社製(模型も)
金堂内部の通路は非常に狭いので、撮影にあたっては特別の工夫が必要であった。そこで六櫻社(小西六写真工業
株式会社、のちのコニカ)の技師たちの協力を得て特製のカメラ装置を設置することになる。まず、壁画の前に等大の枠を立て、その枠に特製の写真機を取り付け、写真機は枠の中で上下左右に自由に移動できるように仕組まれた。乾板は英・イルフォード社に全紙サイズ約50ダースを注文したが、あまりにも大量の発注であったので間違いであろうと照会してきたというエピソードが残っている。魂抜の法要ののち、まず最初に6号壁から作業を始め、組み立てに5日、ピント合わせに1カ月要したという。8月1日から始まった撮影は予定を1カ月以上延長して、10月15日に終了した。モノクロ印画3セットを文部省に納入。
「撮影の初日、昭和10年8月1日、小西六写真工業株式会社の技師3名、便利堂より8名(当時技師長であった故佐藤浜次郎を首班として技師辻本米三郎を輔け、助手4名、営業部2名)が早朝に修理事務所に集合した。寺では壁画の魂抜の法要をするから撮影に関係する者は全部金堂に集まって呉れと連絡してきた。修理事務所側からは事務主任であった故今井文英氏、大滝正雄技師、岸熊吉技師、等外数名が参列された。魂抜の式は故佐伯定胤猊下を始め現管長佐伯良謙猊下等親しく奉修され午前中かかったように記憶する。式後私達は特に用意してきた白衣に着替えて、第6号壁(西方大壁)の前に枠の組立を初めた。」(「金堂壁画原寸大写真原板覚書」石黒豊次、『聖徳』9号、昭和32年3月)

原寸大分割撮影風景(2号壁) 昭和10年
堂内に縦横にスライドする特注のカメラを備え付け6人がかり75日間におよぶ撮影が行われた。
「此の撮影のためには250ワット電球10個を使用できるように配電しておいたので、手許の明るくするつもりで2、3球をつけてみると、6号壁の本尊や脇侍菩薩の線がくっきりと浮かんで来て洵に崇高な美しさに輝き、今更に居並ぶ人々をして驚嘆させた。そして壁画と取組んでこれから何日か仕事をする事の重大な意義を感じさせ、且又新な勇気をふるい興させた。(略)そうしている中にふと私は壁画の下に沢山の顔料の剝落ちてるのに気が付いた。(略)私はそれを丹念に羽ぼうきで掃き集めて置いた。」(石黒氏前掲文)

技師長・佐藤浜次郎
昭和2年、東京・辻本写真工芸社の高級原色版部を便利堂に併合することにともない、佐藤をはじめとする6名の技師が便利堂に移籍した。佐藤は辻本時代の大正8-9年に『法隆寺壁畫集』として原色撮影、昭和4年には便利堂『仏畫篇』で撮影を行っており、今回が3度目となる。
撮影後、ただちに3組の印画を作成し文部省に納入しました。しかし翌昭和11年、写真の焼付は変色のおそれがあることから、コロタイプによる複製制作が再び文部省から依頼されました。先の原寸大モノクロ撮影のガラス乾板から膜面部分をはがし、永久保存を考慮して特別にあつらえた厚さ5ミリのガラス板に裏返して貼り替え、コロタイプ原板を作成。この原版から印刷された12面の原寸大複製20余組が昭和13年までに制作され、国内および主要国に頒布されました。このことは写真・印刷・表装の三面からも日本印刷史上、世界にも誇れるものと自負しています。

コロタイプ印刷作業風景 昭和13年中頃
明るい窓際に一列にならび、一人一台の平台印刷機で作業を行っている。当時は版のうえに和紙を置き、人力でハンドルを回してプレスをかけていた。この平台印刷機の一台は現在本社ロビーに展示している(写真後出)。

コロタイプ版複製作業視察 昭和13年中頃
法隆寺佐伯定胤管長はじめ、昭和の大修理に尽力された国宝保存委員荻野仲三郎氏、国宝保存工事事務所初代所長武田五一氏などのお歴々が、工房に視察に来られた際のスナップ。昭和11年より作業に取り掛かり、完了したのは昭和13年であった。当初は12面30組を予定し、最終的には良品20余組が完成した。視察があった昭和13年中頃は、印刷、表具、仕上げの各作業をフル稼働で並行して行っていたと思われ、一日に3ヶ所をご案内したことがうかがえる。写真は印刷状況を視察される武田五一氏(中央手前)、左は技師長・佐藤浜次郎。

昭和初期まで使用されていた平版印刷機。戦後、すくなくとも壁画の再現模写下図を印刷した昭和42年までには円圧の動力印刷機に取って代わることになった(後述)。

佐藤技師長より刷上がりの説明を受ける佐伯定胤管長


表具作業風景
大壁は3メートル四方もあるため表具も大変な作業であった。写真は、どこかにお借りしたであろう大広間にて裏打ち、板張りの作業風景。表装は立入好和堂(立入徳三郎)。


完成品の検収風景
先に仕上がった複製をご披露しご確認していていただいているところ。佐伯定胤管長(右端)、荻野仲三郎氏(中央手前)
複製にあたっては、耐久性・画像保存性を考え、和紙はもちろんインキについても大変なこだわりをもって取り組んでいました。インキは老舗の諸星インキ(現DICグラフィック株式会社)に特注し、原料の亜麻仁油の製造および精製は日清製油(現日清オイリオグループ株式会社)に特別の協力を得ました。そのときの様子は、当時このインキ開発に尽力いただいた諸星インキ・白土万次郎氏の回顧録に次のように記述してあります。
「(略)佐藤氏はわざわざ上京して筆者をたずねこれに使用するコロタイプインキの製造を懇請された。そして氏のいうには実はこの印刷に使用するために仏国ロリロー製のコロタイプ墨を既に準備はしたが出来得れば外国製品は使いたくはない。国宝的美術品の保存という重大な事業であるから来歴の判明した国産品でしかも永久不変性の材料を使用したいとの熱烈な希望を披歴されたので熟考の結果、このインキの製造を引き受けることに決した。因みにこれに使用する雁皮紙は越前の某製紙所を指定して抄紙せしめたということであった。」 (「法隆寺壁画複製用コロタイプ墨製造について」白土万次郎、協会誌『色材』、第21巻第8号?、昭和23年)
「第1回の製品インキ10キロを便利堂に送ったのは昭和12年4月初めであったが、間もなく同社から「早速ロリローインキ(世界で有名な仏国ロリロー会社の製品)と比較実験を行ったところロリロー製品に比して何等遜色なき立派な印刷ができたので(略)今回の法隆寺壁画複製には全部国産品たる諸星インキを使用することに決定した」との報告に接したときの喜びと満足とは生涯忘れることできない感激であった。
(略)本印刷のために便利堂に納入したコロタイプ墨は30キロに達した。本インキ製造に際しては日清製油の協力を得て特に北海道産の亜麻仁を買い入れて厳冬中にオリビキをなして中和精製し、ついてワニスに製造し、さらにインキに練り上げたもので、その苦心と努力から算出すると高価なものになるので価格の決定には苦慮した。(略)この国家的事業に対しインキを寄贈し代金を請求しないことに決した(略)」(「法隆寺壁画複製余録」白土万次郎、協会誌『色材』、第33巻第4号、昭和35年4月)
完成した複製20余組の頒布先は下記の通り(23組という記録も残っていますが、頒布記録とその後の所在確認等で24組となっています。すべての所在が確認できていませんので、一部所蔵先が移管していて重複している可能性があります。1-18までは昭和35年の記録)。当時の頒布価格は5000円とのことで(京都工芸繊維大学の記録による)現在に価格にすると1000万前後といったところでしょうか。
1-6)国立大学図書館(北大、東北大、東大、京大、阪大、九大か)
7)東京国立博物館
8)京都国立博物館
9)大阪市立美術館
10)京都市立芸術大学
11)京都工芸繊維大学(京都高等工芸学校)
12)東京工業大学(東京高等工業学校)
13,14,15)原田積善会(独国、伊国、満州国に寄贈)
16)ボストン美術館
17)大英博物館
18)ユーモホプロス氏 (George Eumorfopoulos イギリスの美術蒐集家。没後、複製はロンドン大学アジアアフリカ学院図書館School of Oriental and African Studies at the University of London に寄贈。2007年所蔵確認)
19)三井記念美術館
20)女子美術学校(鐘紡繊維美術館旧蔵)
21)天理大学図書館
22)愛知芸術大学(1972年購入)
23)グーテンベルク博物館(1974年購入)
24)宝塚市図書館(1990年清荒神清澄寺より寄贈)
昭和の模写事業と壁画の罹災
このコロタイプ印刷による原寸大複製で特筆されるべきは、昭和14年にはじまった壁画12面の「昭和の模写」と昭和24年に火災に遭ってから後、昭和42年にはじまる「再現壁画」の下図の作成に使用されたことです。
金堂壁画の模写については、壁画保存対策の論議の中で明治35年(1902)には決定されていたようですが、実際に作業にとりかかったのは「昭和の模写」と呼ばれる昭和14年(1939)よりはじまった壁画12面の模写事業です。入江波光、荒井寛方、中村岳陵、橋本明治の4作家を中心とする16名の画家が作業にあたりました。コロタイプ複製を下図にして壁画を実見しながら描く現状模写が進められましたが、荒井・中村・橋本の3班は原寸大コロタイプ印刷された和紙の上に胡粉を塗り彩色していく手法をとり、入江班はコロタイプの上に和紙をおいて上げ写しする方法で模写されました。戦争をはさむ10年間にわたって、過酷な環境下で模写作業は続けられました。

橋本明治画伯「昭和の模写」の様子 昭和15〜23年頃(写真提供:橋本弘安氏)
蛍光灯に照らされた堂内で、壁画を前にしての模写作業

「昭和の模写」の様子 昭和15〜23年頃
作業場を二階建ての櫓にしての模写作業。
模写作業も終盤にさしかかった昭和24年(1949)1月26日の未明、金堂は火災に見舞われます。火災の原因は模写作業中に暖をとるための電気座布団のスイッチ切り忘れなどが取りざたされましたが不明とされています。火災の高熱と消火活動によって壁画は著しく損傷し、ほとんど出来上がっていた模写も罹災しました。現在焼損壁画は、柱とともに樹脂加工され、もう一度以前の形に組み立てられ収蔵庫の中に厳重に保存されています(重要文化財指定)。
この金堂火災をきっかけとして翌25年5月、今日の文化財保護法が制定され、昭和30年(1955)からは文化財保護の意識の徹底を図ることを目的に、出火した1月26日を「文化財防災デー」としています。この痛ましい焼損壁画こそが、我が国の文化財保護のシンボル的存在といえましょう。
原寸大ガラス乾板と再現壁画事業
原寸大分割撮影のガラス乾板は、第二次大戦中は京都大原の三千院に疎開させるなど、唯一無二の貴重原板として丁重に便利堂で管理されてきました。しかし昭和24年の壁画焼損を機に、万全を期するため文部省の委嘱によりもう一組の複製乾板を作成して東京国立博物館(文化庁分室)に納入、昭和31年にオリジナル撮影原板は法隆寺内に新設された壁画資料の収蔵庫に移され現在まで厳重に保管されてきました。
「模写の際原画の色を誤り写さない様にとの配慮からマツダランプに命じて蛍光灯を作らせてそれを使用した。(略)ある日入江班の人達について金堂内に入れて貰った。堂内は蛍光灯特有の薄い光で明るかった。そしてそこで驚いたのは、3年程前に、つまり昭和10年の撮影の時に、あれ丈きれいに掃除して置いた壁画の下部に、あの時と同じ程度に或いはそれ以上にさらに多くの顔料が剥げ落ちていたからである。3年位を周期にこれ位づつ剥落するとなると壁画の生命にも限りがあるなと私は思った。そうすると私達の撮った壁画の原版は実に大切にせねばならぬと考えた。」(石黒氏前掲文)

法隆寺収蔵庫でのガラス乾板保管状況
「大阪第1回の空襲の翌日、私達は工場疎開を決心して実行にうつった。壁画の原板は大原の三千院と決まった。当日、日通のトラックを廻して貰って原板を積込んだ。(略)三千院の手前の石段下で車を止めて運ぶのだが、日通の仲仕達はこんな重いものは腹が減って運べないと云う。(略)私は持ってきた弁当箱を出して一番腹の減っている者が二人で半分づつ喰べて元気をつけろ、残った人には今何か喰べるものをさがして来てあげると云い置いて飛び出した。そして大原村を一戸々々個別に交渉して歩いた。そうするとある家で事情を聞いてこんな芋でもよければふかしてあげると云う。(略)それをザルに一杯盛って帰って来た。貰う方も喜んだが持って帰った私も少し得意であった。これで難なく運び込んだ」(石黒氏前掲文。同文は31年に原板を法隆寺収蔵庫に納めるにあたって書かれた)

昭和10年撮影のガラス乾板
昭和29年(1954)に再建された金堂の壁には何も描かれていない状態でしたが、朝日新聞社の呼びかけにより金堂壁画の模写が昭和42年(1967)3月に実施される運びとなりました。「昭和の模写」同様、コロタイプ版を和紙に薄くプリントしたものを下絵に用い、前回の模写や原色版図版などを参考に彩色を施す手法がとられました。
安田靫彦、前田青邨、橋本明治、吉岡堅二の4作家に計14名の精鋭画家が、約40名の助手を伴い、作業開始から1年後の昭和43年2月に完成した壁画は、同年1月に内陣小壁の飛天図の模写とともに再建された金堂に壁にはめ込まれました。これにより火災から約20年ぶりに「再現壁画」により金堂が荘厳されることになりました。

コロタイプ印刷風景 昭和42年
再び昭和10年のガラス乾板を法隆寺収蔵庫より借り出し、それを用いてゼラチン版に焼き付け、「再現壁画」の下図用コロタイプの印刷作業をしているところ(6号壁左脇侍の勢至菩薩部分)。印刷機は現在使用している円圧動力機に代わっている。

刷り上がりのチェック作業
分割印刷をつないだ際に問題が無いか、それぞれの刷上がりのインキ調子を確認しているところ。

前田青邨画伯「再現壁画」模写の様子
アトリエにて、資料を確かめながら第10号壁を描く前田画伯。左は守屋多々志画伯。
「ガラス乾板の保存」と「カラーコロタイプ版原寸大複製制作」プロジェクト

『原寸大コロタイプ印刷による 法隆寺金堂壁画選』岩波書店刊
コロタイプ多色刷1枚(6号壁菩薩お顔部分)とモノクロコロタイプ6枚を収載
昨年6月に岩波書店から刊行された『原寸大コロタイプ印刷による 法隆寺金堂壁画選』の制作作業にあたり、原寸大撮影のガラス乾板一式を「再現壁画」作業以来約40年ぶりに法隆寺収蔵庫より借り出しました。その際、法隆寺様からこの乾板の保存についてどうしていったらよいうかというお話も出ていました。制作作業を終え、原板のご返却をしなければなりませんが、はたしてこの40年前の保存状態のまま再び収蔵庫に戻してしまってよいものか。今回納めてしまえばまた相当長期間にわたり今の状態で留め置かれると思われます。そこでこの機に何らかの出来うる限りの保存策を施すべきと考え、原板保存のプロジェクトを立ち上げました。現在有識者の方々にご意見を頂戴しているところです。近々には、原板全点の詳細な調書作成に着手する予定です。
また、『法隆寺壁画選』に6号壁の菩薩部分の原寸大コロタイプ多色刷図版が一葉収載されていますが、新たな試みとして6号壁の原寸大全図のコロタイプ多色刷によるカラー版の複製の製作にチャレンジしたいと考えています。数年にわたるプロジェクトになると思いますが、ぜひ完成させてお披露目できる機会ができればと思っています。
《掲載されている写真等の無断転載はご遠慮ください》