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HARIBAN AWARDコロタイプ写真コンペティションは本当に世界初!?

Posted by takumi suzuki on 30.2014 【書棚のコロタイプ】   0 comments   0 trackback
『京都の山水』  便利堂は明治時代にも写真のコンペをやっていました!
明治36年4月 便利堂発行 185×265㎜ 和綴本 表紙絵/竹内栖鳳 題字/富岡鉄斎

京都の山水

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世界初!国際コロタイプ写真コンペ「HARIBAN AWARD」ただいま応募作品募集中!
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京都で職人と一緒にあなたの写真をコロタイプしませんか

便利堂コロタイプ工房では、新たな試みとして「HARIBAN AWARD」コロタイプ写真コンペティションの開催に取り組んでいます。「HARIBAN」とは「玻璃版(はりばん)」のこと。日本では、コロタイプの版にガラス(玻璃)板を使うことから古くからこう呼ばれていました。ハリバン・アワードとは、広く世界からコロタイプで作品を作ってみたい写真家やクリエイターにエントリーしてもらい、最優秀賞者は2週間の京都滞在をしながら受賞作を職人と共に作り上げる機会が与えられるというコンペティションです。⇒くわしくは前回ブログ

「世界初!」と銘打っているHARIBAN AWARDですが、実は写真コンペティション自体は明治時代にすでに便利堂でも行っていました。明治期には小説や写真などさまざまな懸賞(コンペ)が盛んに開催され、投稿作家を育てて行きました。今回取り上げたコロタイプ写真集『京都の山水』は、京都の美しい風景をテーマに便利堂が明治36年(1903)に開催した写真コンペで入選した京都の新進のアマチュア写真家6名の写真を掲載しています。HARIBAN AWARDは、新進の写真家に作品発表の場を与え、ともに歩まんとしたこの歴史と伝統の上に位置しています。


明治のアマチュア写真家

19世紀中頃に日本に伝わった写真は、幕末から明治初期には写真館を構えた職業写真師によって確立されていきますが、明治20年頃になると本業は別に持ちながら、だからこそプロにはないフットワークの軽い、自由な精神で写真にアプローチするアマチュア写真家が活躍しだします。

「この時代、日本の写真界はゼラチン乾板の普及に伴い、営業写真師(プロの写真家)とは異なる、アマチュア写真家が登場して、芸術としての写真のあり方が追及され始めるときであった。明治22(1889)年にわが国最初のアマチュア写真家団体である「日本写真会」が結成されたのを皮切りに、明治26(1893)年には「大日本写真品評会」「華族写真会」が、明治34(1901)年には、「東京写友会」「東洋写真会」、明治37(1904)年には「浪華写真倶楽部」「ゆふつヾ社」などが結成され、コンテストや写真展、写真雑誌の発行などが盛んにおこなわれてゆく。」 (金子隆一氏「明治の写真とコロタイプ絵はがき」より。『明治の京都 てのひら逍遥』 便利堂 2013年発行)

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小川保太郎「題 正月」京都素人写真協会 1月例会 1等当選

上にあげた写真は、弊社所蔵の『京都の山水』に挟み込まれて保存されていた別刷のコロタイプです。おそらく写真集が刊行された明治36年と同じ頃に印刷されたものではないかと思います。「京都素人写真協会」については、詳しくはわかりませんが、東京や大阪で起こっていたアマチュア写真団体が同時期に京都でも結成されていて、活発に活動していたことがわかります。また、例会の当選作をこのようなコロタイプ刷にしていたということも興味深いですし、便利堂がなんらかこうしたかたちで活動を支援していたことがうかがえます。

撮影者の小川保太郎は、江戸中期から続く庭師「小川治兵衛」の八代目で、白楊と号しました。造園家としてだけではなく、考古学者・茶人としても活躍し、特に写真の分野では数々の京都の美しい風景を写し取った作品を残しています。便利堂は、白楊のそうした京都の名所の写真をコロタイプ絵はがきとして数多く世に送り出してきましたが、その機縁になったのがこの『京都の山水』の懸賞だったと思われます。白楊は明治15年生まれですので、写真集発表時は20歳過ぎぐらいでしょう。

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『京都の山水』目次

黒川翠山と便利堂絵はがき

『京都の山水』の巻頭には、「弊店懸賞募集当選写真」として6作家7作品が掲載されています。うち2作品が挙げられているのは、先に紹介した小川保太郎。もうひとり、特筆すべき作家は1頁目を飾る「八瀬の初冬」が選ばれた黒川翠山です。

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右:黒川翠山「八瀬の初冬」 左:小川保太郎「保津の飛橋」 

翠山は、本名を種次郎といい、白楊と同じ明治15年生まれです。若くして家業の呉服商を嗣ぎ、明治33年(1900)18歳頃より本格的に写真家を志し独学で研究を進めました。『京都の山水』の当選作は、翠山の活動最初期に当たり、これを機縁に以後、便利堂の絵はがきシリーズ「京名所百景」の社寺の建築美や街並み、名勝、祭礼、風俗をはじめとした各種絵はがきの原板を数多く撮影しました。

独特の情緒を湛えた雨景を得意とし、明治39年(1906)の日露戦争戦捷記念博覧会に出品した「雨後」で名誉銀牌を授与され一躍有名となります。便利堂では、先立つ38年に翠山の名を冠した絵はがき集「雨中の山水」を刊行するなど、その活動初期の多くの部分を共有しました。

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目次懸賞作品部分。白楊、翠山のほかに入選作家として挙がっている、奥田清月、山田玉耕、蟻井温恭、大森秀翠については未詳。

写真コンペティション、ふたたび

このあと明治末から大正にかけて、便利堂のコロタイプは古美術・文化財写真の印刷、複製にシフトしていき、芸術写真作品の分野ではこんにちに至るまで接点は少なかったといえるでしょう。そうした状況の中、あらためてコロタイプの原点である「写真作品のプリント」に回帰しようという取り組みを10年前から始めています。そして今回、100年の時を隔てて再度行う写真コンペティションが「HARIBAN AWARD」です。

「再度」といいましたが、その内容は大きく異なっています。明治当時は、写真を写真集あるいは絵はがきとしてきれいにプリントする技法はコロタイプしかありませんでした。つまり、写真を印刷する、イコールコロタイプで印刷するということです。同じ「写真コンペ」ではありますが、明治のそれはあくまでも「作品の募集」がメインであり、それを印刷するためにコロタイプを使うことは自明のことであり、選択の余地のないことでした。

HARIBAN AWARDは、写真をプリントする選択肢が多い現代において(逆にデジタルに偏っていて幅が狭いともいえますが)、あえて「コロタイプで作品を作る」というところに焦点を置いているところが大きな違いです。また、世界中からひろく募集するという規模も段違いです。そういう意味で、歴史と伝統を踏まえつつも、視点と意義が全く違うコンペティションだと考えています。このような主旨で同様のコンペがかつて行われたというのは、寡聞にして知りません。したがって、少々大げさですが「世界初」と銘打たせていただきました。

ぜひとも、ひとりでも多くの方にこの世界初のコンペティションにトライしていただきたいと思います。ご応募お待ちいたしております!

先着100名様には、参加費50%割引のキャンペーン中! おそらくあと数日で枠が埋まります。ご登録はお早めに! 下記公式HPまで。

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写真集:安井仲治 『安井仲治写真作品集』 昭和17年(1942)

Posted by takumi suzuki on 18.2014 【書棚のコロタイプ】   0 comments   0 trackback
コロタイプギャラリー春展で展示公開も予定しています!

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安井仲治『安井仲治写真作品集』編集・発行 上田備山 昭和17年 限定50部

 このポートフォリオは、戦前のモダニズム写真の興隆期にその抜きん出た先駆性で強烈な刻印を残した安井仲治の遺作集です。弊社が手掛けた写真集としてもっとも特筆すべき作品がこのポートフォリオといえるでしょう。写真史家の金子隆一氏は、この写真集について次のように述べています。

「この『安井仲治写真作品集』は、何度も言っていることだが、もっともオーセンティックと思われるオリジナルプリントが焼失してしまっているという一点によって、今日において安井仲治の写真世界を正当に伝える第一級の写真集である。いやそれ以上に、日本の写真集の歴史のなかにおいて、戦時下という切迫した状況のなかで製作されたという点と鑑みても内容・印刷・造本のすべてにおいて、燦然とそびえたつものであることは確信してやまない。」(「書誌および解題」金子隆一、『日本写真史の至宝 安井仲治写真作品集』国書刊行会 2005年 「解説」より)

 国書刊行会から復刻本が2005年に刊行されているので、ご所蔵あるいはご覧になった方も多いかもしれません。弊社では長らくこの写真集原本が所在不明でしたが、昨年書庫の引っ越し作業中に忽然と姿を現しました。今回は、この記念すべき写真集のご紹介をしたいと思います(画像はいずれも写真集原本の図版です。また作品集で表記された題名や制作年は、その後の研究でオリジナル表記との異同が指摘されています。以下、《写真集題名〈オリジナル題名〉》オリジナル制作年、で表記しています)。

全ページがPDFでご覧いただけます⇒こちら

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1 《眺める人々〈猿廻しの図〉》大正14年(1925)

 安井仲治(やすい・なかじ)は明治36年(1903)大阪生まれ、家業の洋紙問屋に勤めるかたわら写真の趣味にのめりこむようになり、大正11年(1922)には18歳で関西の名門アマチュア団体「浪華写真倶楽部」に入会します。作品集序文には次のように安井の経歴が紹介されています。

 「安井仲治君は作画に、筆舌に豊かなる天分を併有し久しく本邦写壇の泰斗たり。
 君資性高雅円満、しかも火の如き研究心をもち新鮮なる感覚と卓越せる技法とを駆使せる作品は発表毎に写壇注目の的となり、その独創的表現は世人をして驚嘆せしむ、若年既に大家の風を成す。後全関西写真連盟委員、日本写真美術展覧会審査員となる。
 爾来各種展覧、競技会の審査に携わり、指導的立場に在り、しかも益々自己の練磨を怠らず、頻りに新しき作品と理論の発表を行い代表的作家たる実力を顕示しつつ今日に及ぶ。」

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同 図版部分 

 初期の安井作品は、ほとんどがブロムオイルなどのピグメントプリントで制作され、当時全盛であった「芸術写真」の絵画的な美意識に強く影響されています。写真集最初掲げられたのは、子供など市井の人々が大道芸を楽しむ姿を描いた《眺める人々》。後の研究で《猿廻しの図》とも呼ばれるこの作品は、1925(大正14)年の「第14回浪華写真倶楽部展」に出品して優選賞を得ました。

 A3程度の用紙に余白を大きくとったレイアウトがなされています。オリジナルはブロムオイルなどのピグメントプリントのように見えます。この作品はもちろん、銀塩写真作品についても、プリント作品を複写したネガからコロタイププリントを起こしたように見受けられます。先の金子氏の文章にあるように、この作品や次に挙げた《凝視》などはオリジナルプリントが現存しないということで、唯一このコロタイププリントが同時代に制作されたものとして残っています。

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17 《凝視》昭和6年(1931)

 1930年(昭和5年)、安井と上田備山が中心となり「丹平写真倶楽部」が結成されます。安井は、1931年(昭和6年)に開催された「独逸国際移動写真展」に大きな衝撃を受け、フォトモンタージュやクロースアップなどの「新興写真」の技法を積極的に取り入れていくようになります。作品からは、単に技巧やスタイルをまねることに陥ることなく、写真表現の可能性を模索しようとしているのが読み取れます。

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20 《唄ふ男(一)〈旗〉》昭和6年(1931) 図版部分

 安井はこの《旗》や壁に貼られた政治ポスターやビラを主題とした《相剋》(図28)など、戦後の「リアリズム写真」の先駆けともなるような作品も発表し、さらにその作品世界を拡大していきました。

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27 《犬》昭和10年(1935) 図版部分

 下に挙げる《蝶》や《灯台〈海浜〉》(図版31)、《帽子》(図版32)など、1930年代から始めから日本に紹介されていたシュルレアリスムの影響が見て取れる作品も、単なる模倣に終わらない彼独特のまなざしを感じさせます。 

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37 《蝶》昭和13年(1938) 図版部分

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41 《磁気(二)〈磁力の表情〉》昭和14年(1939) 図版部分

 昭和16年(1941)安井は丹平写真倶楽部の有志たちと、神戸に居留するユダヤ人たちを取材しました。ナチスの弾圧を逃れるため、「日本のシンドラー」杉原千畝領事が発行したビザでポーランドからシベリア経由で神戸に到着したユダヤ難民たちです。共同制作「流氓ユダヤ」として発表されたこのシリーズのうち、6点が安井作品です。写真集にはそのうち4点が収載されています。この頃すでに自身の体に異常を自覚していたといわれています。

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49 《窓》昭和16年(1941) 図版部分

 翌昭和17年(1942)3月15日、38歳の安井仲治は腎不全によって早すぎる死を迎えることになりました。その死後、わずか4か月半で刊行されたのがこの写真集です。日に日に戦況が激しさを増し、物資不足も深刻になる中、残された周囲の写真家たちがこの傑出した写真家の足跡をなんとしてでも作品集というかたちでまとめようとした思いが伝わってきます。

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奥付部分

 編集兼発行者として代表に名前が挙がっているのは、盟友上田備山。奥付には「非売品」と記されており、近しい方々に頒布されたものと思われます。ただ、奥付上部の限定50部のエディションを記入する欄には「ろ第 号」とあります。先に挙げた金子氏の書誌によると、「い」と「ろ」の2種類があり、「い」は頒布用に通し番号が算用数字が手書きで書き込まれ、「ろ」については関係者用として番号が入れられなかったのではないかと推測されています。たしかに弊社所蔵本も「ろ」の無番となっており、安井家に伝わる蔵本も同様です。いずれにしても、50部程度しか制作されておらず、現存するものがきわめて少ない稀覯本といえるでしょう。

 奥付

 作品集は枚葉式のポートフォリオで、作品図版50枚+扉・序文2枚・目次・奥付の計55枚が雲龍紙のような濃紺の和紙で装丁された四方帙に納められています。本文用紙は上質紙系の洋紙ですが、今のものとはずいぶんと違い、かなりざっくりした肌合いです。簡素ともいえるシンプルさですが、決して品格を損なうものではなく、時局において出来うる限りの材料を尽くしたことが感じられます。

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 現在のオフセット印刷で再現し装丁までも忠実に復刻したのが先に紹介した『日本写真史の至宝 安井仲治写真作品集』(国書刊行会 2005年)です。限定出版の豪華本ということもあり、装丁の四方帙の表はクロス素材に変更されてあります。四方帙の上下の折り込み部分は、オリジナルは厚紙ですが、復刻本は耐久性を考慮し、表紙部分と同じボール芯に補強されています。

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『日本写真史の至宝 安井仲治写真作品集』 飯沢耕太郎/金子隆一 監修
国書刊行会 2005年 A3変型判 本体価格 35,000円


 昨年に引き続き、京都グラフィーのサテライト展示として、弊社コロタイプギャラリーの展示を行いますが、今年はこの安井仲治のオリジナルコロタイププリントを展示しようと予定しております。開催は来月18日から。詳しい情報は追ってアップします。また、この展示に合わせて、この作品集より選んだ6作品をコロタイププリントのポートフォリオを作成して販売することも企画しています。春はぜひ京都グラフィーへ!

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◎写真集:ハール・フェレンツ 『ハンガリヤ』 昭和16年(1941)

Posted by takumi suzuki on 21.2012 【書棚のコロタイプ】   0 comments   0 trackback
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ハール・フェレンツ Haar Ferenc 『ハンガリヤ』
写真/ハール・フェレンツ 表紙/ハール・イレーヌ 編集/井上清一 序文/三井高陽
発行年/昭和16年(1941)4月10日 発行者/井上清一(スメル社写真研究所) 発行所/日洪文化協会 印刷所/株式会社 便利堂
仕様/上製本、カバー巻、365×270mm 本文74頁



カテゴリー「書棚のコロタイプ」では、新旧のさまざまなコロタイプの本をご紹介でしていこうと思っています。
最初の一冊は戦前の写真集、ハンガリーの写真家ハール・フェレンツ撮影の『ハンガリヤ』です。

会社の書庫にもあったと記憶しているのですが、安くオークションで出ていたのでちょっと前に入手し、たまたま手元にあったのでこのあたりからどうかな思った次第です。

表紙カバーは、ハンガリーの民族文様をモチーフにしたデザインが和紙に木版5色刷で表現され、70年以上たった今も色鮮やかに残っています。「表紙 ハール・イレーヌ」とクレジットされており、奥さんがデザインしたものです。ちなみにハンガリーでは日本の苗字とと同じく先にファミリーネームが来るそうです。表紙カバーをはずすと、上製本のくるみ表紙はきらびき和紙にカバーと同じタイトルロゴが赤色で木版刷されています。

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「ハンガリヤの草原 ホルトバーデュ」

本文には、牧歌的な農村風景や人々など作者の祖国ハンガリーの風物を詩的に写し取った30図が上質紙系の洋紙にコロタイプで印刷され収録されています。本紙は周囲が少々紙ヤケしていますが、非常に状態がよくこの時期の書籍にも関わらず、比較的良質な用紙を使用していることがわかります。

作者のハール・フェレンツ(Haar Ferenc 1908-1997)は、ブタペストで建築設計会社の仕事をしながら独学で写真を学び、1937年にパリに移って商業写真スタジオを開業。1939年に日本側の招聘でフランスを出国、翌年に来日し、戦後60年まで東京で活躍されました。ごく最近までご存命だったことに驚きました。2009年8月には「日本・ハンガリー国交樹立140周年記念」として回顧展が開催されていました(詳しくは飯沢耕太郎氏の紹介文参照)

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「麦刈りの帰り」

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「ホモツクミージュの田舎娘」 表紙デザインとよく似た文様の衣装を着ています。

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「バラトン湖」

氏のモダンな画面構成に魅入るとともに、仕事柄ついつい細部の刷り具合に目が行ってしまいます。現代の目からすると、紙のラフさもあいまって少しぼんやりした図版のような印象を受ける方も多いと思いますが、それがだんだん違うように見えてくるのが面白いところです。人物と背景の遠近感やハイライトのなかでの空と雲の調子など、コロタイプ独特の雰囲気が出ているのと、「この職人さん、ちゃんと写真わかって刷ってるな」というのがみえて楽しいのと同時に、今の我々がそれをやろうとしてなかなか難しいという課題に立ち戻るいい機会となり勉強になります。

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「チャルダーシュを踊るメゾコベージュドの村人」 雰囲気感じるためにカルマンのオペレッタ"チャールダーシュの女王"聞きながらブログ書いてます

図版はコロタイプモノクロ1色の片面刷。キャプションはグレーの活版で刷られています。各図版の前には薄葉紙が挟み込まれていますが、これはコロタイプのインクが非常に濃いため裏移りを防ぐためです。何十年もたった今でも今にも手につきそうなぐらい黒々としています。そしてこの薄葉に図版解説などが刷り込まれることも多いです。本書では、ところどころにハンガリー民謡の譜面とその訳詩が刷られ、異国の情緒を醸し出す演出がなされています。図版が全点二方断切りというのも、なんか斬新です。

足継ぎ製本
製本のノド部分拡大「足継ぎ製本」。細長い茶色い部分が継ぎ足した和紙

製本はいわゆる角背・ホローバックの上製本ですが、普通とは少し違うのが「足継ぎ製本」という形をとっている点です。一般的には、製本は一枚の紙に何頁かを印刷して折りたたんで綴じていきます。足継ぎ製本とは、1頁ずつそのノドの部分に細長い和紙などを継ぎ足して製本することで、別丁頁を綴じ込む場合やノドの開きを良くしたりする場合に用いられたりします。しかし本書の場合はそれ以外にも大型コロタイプ本特有の理由が考えられます。

平版コロタイプ印刷機
平版コロタイプ印刷機。本社1Fに展示してあります。

写真は石版印刷機をベースにした平版のコロタイプ印刷機です。正確な記録は残っていませんが、現在の円圧動力機を導入する前の、おそらく明治から戦後しばらくまで使用されていた機械です。動力を完全に人間の力に頼っているので、一日何百枚も刷る当時の職人さんたちは技術的にも体力的にも大変だったと頭が下がる思いです。この平版印刷機が刷れるサイズが全紙判(約B3判)であり、本書が約B4判ですので、おそらく2丁付(2頁を一度に刷ること)で印刷し、1頁分に断裁してから足継ぎで1頁ずつ綴じたのだと思います。本社書庫には、全紙判の超大型書もありますので、ご紹介する機会があればと考えています。

『富士山麓』昭和17年(1942) 上製本、表紙カバー、函 サイズ370×275㎜
『富士山麓』 昭和17年(1942) 

ハール・フィレンツの写真集はこの『ハンガリヤ』に前後して同様の大型写真集が2冊発表されています。1冊は前年の昭和15年に刊行された『東洋への道』(編集/井上清一 発行所/アルス 図版90点)と翌年17年の『富士山麓』(序文/三井高陽 編集・発行/スメル写真研究所 井上清一 印刷/便利堂 図版33点)です。つまり太平洋戦争勃発直前からの3年間に毎年1冊でていることになります。日本での第一冊となる『東洋への道』は2部構成となっています(1部「巴里1938」、2部「ハンガリヤより日本へ」)。文字通り、祖国からパリを経て来日する足跡がまとめられています。

『ハンガリヤ』奥付
『ハンガリヤ』奥付

3冊ともに共通しているのが編集・発行の「井上清一」もしくは「スメル写真研究所」(『ハンガリヤ』の奥付では「スメル写真研究所」となっています)。フィレンツ氏は、1937年のパリ万博にはいくつかの写真を展示し、この結果、パリに移住することになり、そこで映画輸入業者の川添と出会います。この「川添」とは、1939年までパリに滞在しロバート・キャパと親交が深かった文化交流プロデューサーの川添浩史氏です。ハール・フィレンツの「東洋への道」の陰には川添氏の影響があったことが察しられます。そして川添氏とともにキャパと親しく生活していたのが井上清一氏です(のちにふたりはキャパの著作『ちょっとピンぼけ』を共訳)。大戦前夜のパリの交友関係が忍ばれて大変興味深いです。

井上清一氏は便利堂4代目社長 中村竹四郎の次女・和子さんと結婚され、一時便利堂にも在籍されていました。当時竹四郎が経営していた大阪の星岡茶寮の会員名簿(昭和13年6月1日付)にも井上氏の名前が確認でき、資料によると、ちょうどこの本が刊行された昭和16年に結婚されたようなので、この一連のお付き合いおよび出版がご縁になったようです(下記【追記】参照)。

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序文の三井高陽男爵の署名

そしてもうひとりの重要人物が2冊に序文を寄せている三井高陽(みつい・たかはる)男爵です。三井南家10代当主である高陽氏は、三井系列企業の重役を務める傍ら、海外との文化交流にも力を注がれた人物のようです。ここでの肩書は「日洪文化協会会長」となっています(「洪」とはハンガリーの漢字表記「洪牙利」)。満州事変以降の日本の外交が孤立化していく背景において、こうした東欧諸国との国策的な文化交流が生み出した「写真集」という視点からも非常に興味深いものを感じます(このころの日洪関係などについて詳しくは、千葉大学近藤正憲氏「戦間期における日洪文化交流の史的展開」が参考になりました)

コロタイプによる古美術写真の図録の印刷は数多い弊社ですが、いわゆる写真家の写真集というのはおそらくそんなに多くない(のではと思います。安井仲治写真集などの例はありますが)弊社が、なぜこの写真集をすることになったのか。この辺りの事情については、またあらためてご紹介する機会があればと思います。一冊の本を見ながら、いろいろ思っていると一日があっという間にたってしまいました。

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後付図版リストの書き添えられた著者識語

最後に。オークションで入手した本書ですが、よくみると後付リストの余白に著者の識語がありました。「東京 1941年3日10月」と書いてあるようですが、本文は残念ながらハンガリー語のようでよくわかりません。ただ「Mitui Takaharu」と書いてあるのはわかります。ハンガリー語お分かりになる方、ぜひご教示ください!

おまけ
奥付拡大
奥付の定価の上に○停(まるてい)という印があります。「○停」とはインフレ抑制のために昭和14年に公布された価格等統制令による価格停止品を示していて、同年9月18日現在の価格を最高価格として商品等の値段を据え置くことを指示したものです。敗戦まで存続し、その日付から「九・一八停止価格令」ともいうようです。その後の新製品には「○に新」、協定価格品は「○に協」、公定価格品は「○に公」、許可価格品は「○に許」といった価格符号の表示があるようです。

価格は20円となってます。このころの一般単行本が1円前後のように思われますので、今で置き換えると数万円といったところでしょうか。やはり高いですね。オークションでン千円で入手できたのは幸いでした。

【追記】

「もともと、私が親しく交わり始めた中村一族とは、彼(注:妻・和子の兄、五代目社長中村桃太郎)の父竹四郎で、国際文化交流事業に専念していた私が、ハンガリヤ出身の写真家フランシス・ハールの作品集を便利堂に依頼したり、更に、現在銀座三丁目の「銀茶寮」の地所にあった便利堂出張所の二階に、「審光写場」なるフォト・スタヂオを開設、大戦で日本に足止めされたハールを援助すべく、共同出資の事業を始めてからのことである。」(井上清一「桃生を憶う」、追悼集『中村桃太郎』 昭和53年2月1日発行)

「(略)故竹四郎社長が審美書院の常務取締役を兼任することになったのでした。それは昭和14年頃から15年にかけてのことだったように思います。それで、銀座西五丁目の菊池ビルの三階にあった便利堂東京出張所は審美書院の中の一部を改装して移ってきました。現在の銀茶寮のある銀座西三丁目三番地が審美書院だったところです。
 (略)審美書院の社屋は元赤煉瓦の二階建だったのですが、(略)昭和16年秋、この社屋を改築して審光写場を作りました。(略)斯くて、すっきりした外観をととのえ、表に面した二階がこの写場であって、便利堂の技師長専務の故佐藤浜次郎さんと、オーストリヤの芸術写真家ハール・フェレンツさんとの技術提携を看板にサトウ・ハール・スタヂオとして発足しました。(略)順調に営業をつづけておりましたが、昭和20年5月24日夜から未明へかけての大空襲で全社屋と共に焼失してしまいました。」(便利堂東京出張所長 石井照一「人物オリンピック」、前掲書)

2014/10/23 追記及び加筆修正
2021/9/12 加筆修正

プロフィール

takumi suzuki

Author:takumi suzuki
【コロタイプの過去・現在・未来。創業明治20年の京都 便利堂が100年以上にわたって続けているコロタイプ工房より最新の情報をお届けします】
Japanese:www.benrido.co.jp
English:www.benrido-collotype.today

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