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写真家・桑嶋維氏のロンドンでの個展でコロタイプ作品を出品!
Tsunaki Kuwashima's an Art Exhibition
The Eternal Idol 「久遠―永遠のアイドル」
2013/7/27-8/28 @UNION Gallery, London

新進の写真家・桑嶋維(くわしま・つなき)さんの写真展が、今週末27日よりロンドンのUnion Gallery (94 Teesdale Street London E2 6PU) http://www.union-gallery.com/ではじまります。桑嶋さんは、広告、雑誌の撮影をこなす傍ら、2005年以降から『闘牛島・徳之島』(平凡社)、『朱殷』(求龍堂)(いずれも大英博物館、V&A美術館収蔵)などの写真集の発表や執筆活動を展開されています。
「出版をはじめ、エッセイの連載や個展をとおして作家としての視線をレンズの向こうに貫きながら、日本の写真美術界に新たな地平を切り開こうとしている、現在もっとも注目したい写真家の一人である。」(山梨県立美術館 学芸課長 向山富士雄氏の推薦文より)

コロタイプ作品の校正刷
桑嶋さんとご縁が始まったのは、昨年9月に日大芸術学部で開催された「オルタナティブ・プロセス国際シンポジウム(Alternative Processes International Symposium 2012 Tokyo)」で行ったコロタイプワークショップに桑嶋さんが参加されたことがきっかけでした⇒詳しくはこちら。

コロタイプを体験中の桑嶋氏@APIS
桑嶋さんは、平成25年度の大木記念美術作家助成基金の「海外美術展」対象作家として選出され、今回のロンドンでの個展開催となりました。便利堂は「Special Artist Support」として参画しています。桑嶋さんをはじめ、日本の若い作家がコロタイプの表現力に魅力を感じてくださり、海外で作品を発表するにあって、日本の写真家として日本独自の表現技術を用いたいと考えていたけるのは大変ありがたいことだと思っており、我々もこうしたアーティストの方々の活動の後押しをできる範囲ですが取り組んでいきたいと考えています。

基金授与式の様子。山梨県立美術館館長より「桑嶋維の作品は写真界でなく芸術界に一石を投じる作品です」とのお言葉を頂ただいたとのこと。
本展は、山梨で発掘された縄文土器、土偶をモチーフとした写真展です。土器や土偶を桑嶋さんは「縄文人たちから僕たちへの文字の無い手紙」と呼びます。「無文字社会の縄文時代においては、「伝える」ということは決して説明することではなく、考えさせると言う事なのだろう。」女性をモデルとした土偶。そこに生命の「誕生」と「死」を繰り返しながら命をつないでいくことへの「祈り」と「責務」、縄文と現代をつなぎ未来への指針となる「文字ではないメッセージ」を桑嶋さんは見出します。

コロタイプ作品はこんなキューブに入ります
展示のメイン作品となるのが45センチ角にコロタイプでプリントされた作品です。作品名は《南アルプスヴィーナス》。土偶の顔部分がアップになったカラー作品と、全身をネガ反転して表現したモノクロ作品の2点1セットで、上記のようなスチールのキューブに両面展示されます。目の部分に残った朱の色の表現に苦心しました。エディションは12部限定。

展示作業風景1
このキューブ以外にも、マネキンの頭に土偶の顔の写真がのった展示など、とてもユニークなものになるそうです。26日は内覧会、8月9日はレセプション、21・22日はセインズベリー日本藝術研究所でワークショップが予定されています。9日のレセプションには参加したいと思っていますので、また現地での様子をレポートできればと思っています。

展示作業風景2
桑嶋さんについて詳しくは
⇒桑嶋さんのHP
⇒桑嶋さんのインタビュー
The Eternal Idol 「久遠―永遠のアイドル」
2013/7/27-8/28 @UNION Gallery, London

新進の写真家・桑嶋維(くわしま・つなき)さんの写真展が、今週末27日よりロンドンのUnion Gallery (94 Teesdale Street London E2 6PU) http://www.union-gallery.com/ではじまります。桑嶋さんは、広告、雑誌の撮影をこなす傍ら、2005年以降から『闘牛島・徳之島』(平凡社)、『朱殷』(求龍堂)(いずれも大英博物館、V&A美術館収蔵)などの写真集の発表や執筆活動を展開されています。
「出版をはじめ、エッセイの連載や個展をとおして作家としての視線をレンズの向こうに貫きながら、日本の写真美術界に新たな地平を切り開こうとしている、現在もっとも注目したい写真家の一人である。」(山梨県立美術館 学芸課長 向山富士雄氏の推薦文より)

コロタイプ作品の校正刷
桑嶋さんとご縁が始まったのは、昨年9月に日大芸術学部で開催された「オルタナティブ・プロセス国際シンポジウム(Alternative Processes International Symposium 2012 Tokyo)」で行ったコロタイプワークショップに桑嶋さんが参加されたことがきっかけでした⇒詳しくはこちら。

コロタイプを体験中の桑嶋氏@APIS
桑嶋さんは、平成25年度の大木記念美術作家助成基金の「海外美術展」対象作家として選出され、今回のロンドンでの個展開催となりました。便利堂は「Special Artist Support」として参画しています。桑嶋さんをはじめ、日本の若い作家がコロタイプの表現力に魅力を感じてくださり、海外で作品を発表するにあって、日本の写真家として日本独自の表現技術を用いたいと考えていたけるのは大変ありがたいことだと思っており、我々もこうしたアーティストの方々の活動の後押しをできる範囲ですが取り組んでいきたいと考えています。

基金授与式の様子。山梨県立美術館館長より「桑嶋維の作品は写真界でなく芸術界に一石を投じる作品です」とのお言葉を頂ただいたとのこと。
本展は、山梨で発掘された縄文土器、土偶をモチーフとした写真展です。土器や土偶を桑嶋さんは「縄文人たちから僕たちへの文字の無い手紙」と呼びます。「無文字社会の縄文時代においては、「伝える」ということは決して説明することではなく、考えさせると言う事なのだろう。」女性をモデルとした土偶。そこに生命の「誕生」と「死」を繰り返しながら命をつないでいくことへの「祈り」と「責務」、縄文と現代をつなぎ未来への指針となる「文字ではないメッセージ」を桑嶋さんは見出します。

コロタイプ作品はこんなキューブに入ります
展示のメイン作品となるのが45センチ角にコロタイプでプリントされた作品です。作品名は《南アルプスヴィーナス》。土偶の顔部分がアップになったカラー作品と、全身をネガ反転して表現したモノクロ作品の2点1セットで、上記のようなスチールのキューブに両面展示されます。目の部分に残った朱の色の表現に苦心しました。エディションは12部限定。

展示作業風景1
このキューブ以外にも、マネキンの頭に土偶の顔の写真がのった展示など、とてもユニークなものになるそうです。26日は内覧会、8月9日はレセプション、21・22日はセインズベリー日本藝術研究所でワークショップが予定されています。9日のレセプションには参加したいと思っていますので、また現地での様子をレポートできればと思っています。

展示作業風景2
桑嶋さんについて詳しくは
⇒桑嶋さんのHP
⇒桑嶋さんのインタビュー
明治期の絵はがき展、好評開催中!
展示は今週土曜日まで!

7Fギャラリーのエントランス

瀬尾支配人
東京オフィス・7Fギャラリースペース支配人の瀬尾です。今年5月に京都で開催し、ご好評をいただきました《便利堂 美術絵はがきの歩み展―明治の京都 手のひら逍遥―》の巡回展を、東京・神保町で絶賛開催中です!
《便利堂 美術絵はがきの歩み展―明治の京都 てのひら逍遥―》
会期:2013年7月16日(火)~27日(土) ※ 7月21日(日)は休室
会場:京都便利堂ギャラリーオフィス東京(岩波書店一ツ橋別館7階)
開室時間:[月~金]12:00~18:00 [土]10:00~15:00
入場無料 ※ 入場には入場券が必要です。京都便利堂東京神保町店にて配布しています。

展示会場は便利堂神保町店から歩いて5分。岩波書店一ツ橋別館7Fにあります。

ビル入り口の看板が目印です。

神保町は古書の街として有名ですが、古絵はがきを取り扱っているお店も多くあります。今回は美術ファンにとどまらず、古絵はがきの愛好家の方々にも多くお越しをいただいております。
「便利堂はコロタイプ作業の時、今もビール使ってる?」と聞かれたので、使っていますと返答すると、噂だと戦時中、便利堂だけはビールがあってもよかったらしいね。とウソかホントか面白いお話しをしてくださった岩波書店の方。
京都の風景絵はがき、コロタイプで刷られて美しい。当時の空気感までイメージできる、とおっしゃっていた伝統文化のセミナー講師をされている女性。
「舞姿」はがきに竹内栖鳳が人物画を描いていることに驚き、感激されていた竹内栖鳳を研究されている大学研究員の女性。栖鳳の人物画は3点しか現存せず、復刻したはがきの原画は一番古いとされている《アレ夕立に》より古い、とのこと。

今は東京に住んでるとのことですが、転勤で京都に住んだことがある年配の東京店常連のお客様。そのころの思い出や京都の魅力を熱心に話されていました。絵はがきを通して、昔の記憶や、思い出を想起されたようです。
明治の絵はがきを観て、現在のデザインはがきよりも優れた、素敵なデザインのはがきが多くあることに感動しておられた女性。「7階でやるのがもったいない、もっと多くの方に見てもらう機会があればいいのに。」
コロタイプの技術にとても興味があるという男性。ポストカードを集めるのが好きで、収集を行っているととのこと。「自分の持っているハガキにもコロタイプがあるのかなあ。」

世界の人との文通を楽しむ「ポストクロッシング」の紹介もしています。ドイツやロシア、フィンランドなど各国から届いた絵はがきを展示しています。

ギャラリーには、昭和24年に焼損したコロタイプ版「法隆寺金堂壁画」のうち六号壁も展示しています。焼損前の昭和10年に撮影、コロタイプで印刷したものです。原寸大ですが、展示の都合上、上下をトリミングして額装にしてあります。現在、法隆寺金堂に設置してある再現壁画は、このモノクロコロタイプの上をベースに、安田靫彦・前田青邨など名だたる日本画家によって着色がなされています。法隆寺金堂壁画と便利堂との関わりについて、詳しくは⇒こちら。

去る7月20日(土)には、『明治の京都 手のひら逍遥』の監修者・生田誠さんに「絵はがきと東京・京都」という題してご講演をいただきました。
1.絵はがきの歴史・年賀状から
2.絵葉書の種類、技法
3.風景絵葉書、コロタイプ
4.東京の絵葉書を見る の4つのテーマでお話していただきました。

肉筆、銅板、木版、リトグラフ、ブロマイド、コロタイプ、三色版などの絵はがきをスライドで見せていただきながら、仕上がりの違いを説明していただきました。便利堂が発行し、先日復刻も行いました「ベースボール」絵はがきですが、東京のメーカーが当時作ったベースボールはがきを見ながら、東西の画風の違いから、当時まだ新しいスポーツを絵はがきとして伝えることの面白さを感じました。
また、生田さんのコレクションから東京の風景絵はがきも見せていただきました。今のスカイツリーのお膝元である隅田川の橋や日本橋、品川駅など有名な場所から、地元の人ならわかるような場所も名所はがきとして販売されていたそうです。今の東京からは想像もつかない、のどかな風景です。神保町界隈の古絵はがきに興味のある方も多く、熱心に聴講されていました。所有している絵はがきをご持参して生田さんにご質問される方もいらして和やかに終わりました。
展示は今週27日(土)まで! 最終日の開室時間は10:00~15:00。週末はぜひ神保町へ!
※ 展示期間外は一般公開をしておりません。あしからずご了承ください。

7Fギャラリーのエントランス

瀬尾支配人
東京オフィス・7Fギャラリースペース支配人の瀬尾です。今年5月に京都で開催し、ご好評をいただきました《便利堂 美術絵はがきの歩み展―明治の京都 手のひら逍遥―》の巡回展を、東京・神保町で絶賛開催中です!
《便利堂 美術絵はがきの歩み展―明治の京都 てのひら逍遥―》
会期:2013年7月16日(火)~27日(土) ※ 7月21日(日)は休室
会場:京都便利堂ギャラリーオフィス東京(岩波書店一ツ橋別館7階)
開室時間:[月~金]12:00~18:00 [土]10:00~15:00
入場無料 ※ 入場には入場券が必要です。京都便利堂東京神保町店にて配布しています。

展示会場は便利堂神保町店から歩いて5分。岩波書店一ツ橋別館7Fにあります。

ビル入り口の看板が目印です。

神保町は古書の街として有名ですが、古絵はがきを取り扱っているお店も多くあります。今回は美術ファンにとどまらず、古絵はがきの愛好家の方々にも多くお越しをいただいております。
「便利堂はコロタイプ作業の時、今もビール使ってる?」と聞かれたので、使っていますと返答すると、噂だと戦時中、便利堂だけはビールがあってもよかったらしいね。とウソかホントか面白いお話しをしてくださった岩波書店の方。
京都の風景絵はがき、コロタイプで刷られて美しい。当時の空気感までイメージできる、とおっしゃっていた伝統文化のセミナー講師をされている女性。
「舞姿」はがきに竹内栖鳳が人物画を描いていることに驚き、感激されていた竹内栖鳳を研究されている大学研究員の女性。栖鳳の人物画は3点しか現存せず、復刻したはがきの原画は一番古いとされている《アレ夕立に》より古い、とのこと。

今は東京に住んでるとのことですが、転勤で京都に住んだことがある年配の東京店常連のお客様。そのころの思い出や京都の魅力を熱心に話されていました。絵はがきを通して、昔の記憶や、思い出を想起されたようです。
明治の絵はがきを観て、現在のデザインはがきよりも優れた、素敵なデザインのはがきが多くあることに感動しておられた女性。「7階でやるのがもったいない、もっと多くの方に見てもらう機会があればいいのに。」
コロタイプの技術にとても興味があるという男性。ポストカードを集めるのが好きで、収集を行っているととのこと。「自分の持っているハガキにもコロタイプがあるのかなあ。」

世界の人との文通を楽しむ「ポストクロッシング」の紹介もしています。ドイツやロシア、フィンランドなど各国から届いた絵はがきを展示しています。

ギャラリーには、昭和24年に焼損したコロタイプ版「法隆寺金堂壁画」のうち六号壁も展示しています。焼損前の昭和10年に撮影、コロタイプで印刷したものです。原寸大ですが、展示の都合上、上下をトリミングして額装にしてあります。現在、法隆寺金堂に設置してある再現壁画は、このモノクロコロタイプの上をベースに、安田靫彦・前田青邨など名だたる日本画家によって着色がなされています。法隆寺金堂壁画と便利堂との関わりについて、詳しくは⇒こちら。

去る7月20日(土)には、『明治の京都 手のひら逍遥』の監修者・生田誠さんに「絵はがきと東京・京都」という題してご講演をいただきました。
1.絵はがきの歴史・年賀状から
2.絵葉書の種類、技法
3.風景絵葉書、コロタイプ
4.東京の絵葉書を見る の4つのテーマでお話していただきました。

肉筆、銅板、木版、リトグラフ、ブロマイド、コロタイプ、三色版などの絵はがきをスライドで見せていただきながら、仕上がりの違いを説明していただきました。便利堂が発行し、先日復刻も行いました「ベースボール」絵はがきですが、東京のメーカーが当時作ったベースボールはがきを見ながら、東西の画風の違いから、当時まだ新しいスポーツを絵はがきとして伝えることの面白さを感じました。
また、生田さんのコレクションから東京の風景絵はがきも見せていただきました。今のスカイツリーのお膝元である隅田川の橋や日本橋、品川駅など有名な場所から、地元の人ならわかるような場所も名所はがきとして販売されていたそうです。今の東京からは想像もつかない、のどかな風景です。神保町界隈の古絵はがきに興味のある方も多く、熱心に聴講されていました。所有している絵はがきをご持参して生田さんにご質問される方もいらして和やかに終わりました。
展示は今週27日(土)まで! 最終日の開室時間は10:00~15:00。週末はぜひ神保町へ!
※ 展示期間外は一般公開をしておりません。あしからずご了承ください。
彬子女王殿下とコロタイプ
『文化財の現在 過去・未来』 彬子女王・編
「文化財保存に資するコロタイプ技術と今後の課題」
山本修(便利堂コロタイプ工房長)寄稿文収載

『文化財の現在 過去・未来』彬子女王・編
2013年7月20日発行 宮帯出版社 4500円 ISBN978-4-86366-889-8
現在立命館大学衣笠総合研究機構招聘研究教員をされている彬子女王殿下が、このたび『文化財の現在 過去・未来』を上梓されました。これは2010年4月と2011年12月の2回にわたって立命館で開催された国際シンポジウム「文化財の現在 過去・未来」の成果をまとめられたものです。
英国留学から帰国された殿下は、立命館大学の勤務で京都に移り住まれることになりましたが、京都の伝統・文化を直に触れる機会が増える中で、伝統的文化や文化財をどのように後世に遺していくかという問題意識を持たれました。そして企画されたのがこのシンポジウムです。従来お互い接点を持つ機会が少ない異業種・異分野間でこの問題を共有し、論じ、展開していこうというのが彬子女王殿下の独自の切り口となっています。
1回目のテーマ「デジタルとアナログ共存の意義」(2010年4月30日、5月1日)では文化財を支える「人」に焦点が当てられ、第2回「モノの記憶を残す方法」(2011年12月17日、18日)では文化財を支える「モノ」に焦点を当てられました。第1回目のシンポジウムでは、草木染の伝統染色技術を伝えておられる吉岡氏や和菓子文化の虎屋さん、修復技術者としての表具師関地氏、コレクターとして古美術を継承しているジョー・プライス氏などがスピーカーとして参加されました。
各分野で著名な各氏にまじって、僭越ながら弊社コロタイプの山本が「コロタイプ、その文化財保存への役割―デジタルを取り入れた技術革新の取り組みを中心に」と題して発表させていただきました。本書でも、その時の講演内容をまとめたものを寄稿させていただいています。

講演会後のパネルディスカッション。右から二人目が彬子女王殿下。ジョー・プライス氏の左が山本。2010年5月1日
彬子女王殿下とのご縁ができましたのは、殿下がまだ英国オックスフォード在学中の2008年末に法隆寺金堂壁画についてお問合せのメールをいただいたことでした。当時殿下は、大英博物館の日本美術コレクションを研究されており(その論考は⇒こちら)、その調査中に弊社が昭和12年に大英博物館に納入したコロタイプ版「法隆寺金堂壁画」を発見され(⇒詳しくはこちら)、その納入経緯についてお尋ねいただいたのが最初です。帰国後は京都にお住まいのこともあり、弊社工房見学にお越しいただいたり、コロタイプ研究会にご出席いただくなど、親しく接していただいています。

コロタイプ版「法隆寺金堂壁画」をご覧になる彬子女王殿下。2009年3月19日
このような経緯から、殿下にはコロタイプとその技術を用いた文化財保存について深くご理解いただいていたため、このシンポジウムの参加を呼び掛けていただいた次第です。さらに今回、このような書籍に発表の場を与えていただきありがたく思っております。パネルディスカッションも収録されており、非常に中味の濃い内容となっております。ぜひご一読していただきたい1冊です。京都国立博物館、京都文化博物館のミュージアムショップでも取扱い予定です。

工房見学で説明を受けておられる彬子女王殿下。同日
「文化財保存に資するコロタイプ技術と今後の課題」
山本修(便利堂コロタイプ工房長)寄稿文収載

『文化財の現在 過去・未来』彬子女王・編
2013年7月20日発行 宮帯出版社 4500円 ISBN978-4-86366-889-8
現在立命館大学衣笠総合研究機構招聘研究教員をされている彬子女王殿下が、このたび『文化財の現在 過去・未来』を上梓されました。これは2010年4月と2011年12月の2回にわたって立命館で開催された国際シンポジウム「文化財の現在 過去・未来」の成果をまとめられたものです。
英国留学から帰国された殿下は、立命館大学の勤務で京都に移り住まれることになりましたが、京都の伝統・文化を直に触れる機会が増える中で、伝統的文化や文化財をどのように後世に遺していくかという問題意識を持たれました。そして企画されたのがこのシンポジウムです。従来お互い接点を持つ機会が少ない異業種・異分野間でこの問題を共有し、論じ、展開していこうというのが彬子女王殿下の独自の切り口となっています。
1回目のテーマ「デジタルとアナログ共存の意義」(2010年4月30日、5月1日)では文化財を支える「人」に焦点が当てられ、第2回「モノの記憶を残す方法」(2011年12月17日、18日)では文化財を支える「モノ」に焦点を当てられました。第1回目のシンポジウムでは、草木染の伝統染色技術を伝えておられる吉岡氏や和菓子文化の虎屋さん、修復技術者としての表具師関地氏、コレクターとして古美術を継承しているジョー・プライス氏などがスピーカーとして参加されました。
各分野で著名な各氏にまじって、僭越ながら弊社コロタイプの山本が「コロタイプ、その文化財保存への役割―デジタルを取り入れた技術革新の取り組みを中心に」と題して発表させていただきました。本書でも、その時の講演内容をまとめたものを寄稿させていただいています。

講演会後のパネルディスカッション。右から二人目が彬子女王殿下。ジョー・プライス氏の左が山本。2010年5月1日
彬子女王殿下とのご縁ができましたのは、殿下がまだ英国オックスフォード在学中の2008年末に法隆寺金堂壁画についてお問合せのメールをいただいたことでした。当時殿下は、大英博物館の日本美術コレクションを研究されており(その論考は⇒こちら)、その調査中に弊社が昭和12年に大英博物館に納入したコロタイプ版「法隆寺金堂壁画」を発見され(⇒詳しくはこちら)、その納入経緯についてお尋ねいただいたのが最初です。帰国後は京都にお住まいのこともあり、弊社工房見学にお越しいただいたり、コロタイプ研究会にご出席いただくなど、親しく接していただいています。

コロタイプ版「法隆寺金堂壁画」をご覧になる彬子女王殿下。2009年3月19日
このような経緯から、殿下にはコロタイプとその技術を用いた文化財保存について深くご理解いただいていたため、このシンポジウムの参加を呼び掛けていただいた次第です。さらに今回、このような書籍に発表の場を与えていただきありがたく思っております。パネルディスカッションも収録されており、非常に中味の濃い内容となっております。ぜひご一読していただきたい1冊です。京都国立博物館、京都文化博物館のミュージアムショップでも取扱い予定です。

工房見学で説明を受けておられる彬子女王殿下。同日
井浦新氏、コロタイプに挑戦!
今秋発行の書籍の企画で

刷上がりを丹念に見比べている井浦氏

工房長・山本(中)、丹村(左)
丹村です。7月19日、俳優でクリエイターでもある井浦新さんにコロタイプワークショップを体験していただきました。井浦さんは、今春よりNHK「日曜美術館」のキャスターを務められ、京都国立博物館文化大使にも就任されていらっしゃいます。写真家の活動もされており、この3月まで箱根彫刻の森美術館にて作品展『井浦新 空は暁、黄昏れ展 ー太陽と月のはざまで ー』を開催されていました。
井浦さんが来社されるのは、先月25日の工房見学に引き続き、二度目となります。今回は、実際にご自身の作品をレタープレス機でコロタイププリントする体験をしていただきました。今秋、井浦さんの書籍の刊行が企画されており、そこには京都の文化や伝統技術が紹介される予定で、その掲載企画のひとつとして「井浦さんがコロタイプで作品をプリントする」という取材の申し出をいただいた次第です。この日は、本番の取材に先だって、テスト的にプリントを体験していただきました。

インクを練るところから体験。工房長・山本の手の動きを真剣に見つめる井浦氏

練るだけでも熟練を要する作業ですが、すぐにコツをつかまれました
『空は暁、黄昏れ展』図録からこちらで3点を選び、プリントしていただきました。ご自身も写真作品を制作されていますが、撮影だけでなく、印刷にもご感心をもたれているとのこと。山本工房長からのコロタイプの手順説明に、真剣に耳を傾けていらっしゃいました。

ローラーにインキをつける。均等につけることができるかどうかで、刷上がりが変わってきます
今回初めてコロタイプを体験された井浦さんですが、そのローラー捌きがとても慣れたご様子! お尋ねすると、シルクスクリーンのご経験があり、「昔は、年賀状は版画を彫って、ばれんで刷っていた」と仰っていました。

ゼラチン版にインキング

周囲をマスキング

作品に合う和紙をいろいろと選んで版の上へ

レタープレス機に版をセットし

ハンドルを回して、プレスしていきます

プレス後、和紙をゆっくりと版からはがします

刷上がりはどうでしょうか

和紙の種類の違いや、インキングの違いによって表現が変わってきます
限られた時間のなかでしたが、刷り手の一手でプリントの調子が変化するコロタイププリントの面白さをお楽しみくださいました。

調子の違いをじっくり見ておられました

3作品を、それぞれ違う和紙に濃度や調子を変えて。鳥の子紙の刷上がりが一番気にっておられました
近々本番の取材予定です。本番には、今回のテストの体験を踏まえて、井浦さんがコロタイプしてみたい作品を選ばれます。どんな作品になるか、どんな刷上がりになるか、今から楽しみです! ぜひその様子は書籍にてご覧いただければ幸いです。また刊行の詳細が分かりましたらお知らせいたします!

刷上がりを丹念に見比べている井浦氏

工房長・山本(中)、丹村(左)
丹村です。7月19日、俳優でクリエイターでもある井浦新さんにコロタイプワークショップを体験していただきました。井浦さんは、今春よりNHK「日曜美術館」のキャスターを務められ、京都国立博物館文化大使にも就任されていらっしゃいます。写真家の活動もされており、この3月まで箱根彫刻の森美術館にて作品展『井浦新 空は暁、黄昏れ展 ー太陽と月のはざまで ー』を開催されていました。
井浦さんが来社されるのは、先月25日の工房見学に引き続き、二度目となります。今回は、実際にご自身の作品をレタープレス機でコロタイププリントする体験をしていただきました。今秋、井浦さんの書籍の刊行が企画されており、そこには京都の文化や伝統技術が紹介される予定で、その掲載企画のひとつとして「井浦さんがコロタイプで作品をプリントする」という取材の申し出をいただいた次第です。この日は、本番の取材に先だって、テスト的にプリントを体験していただきました。

インクを練るところから体験。工房長・山本の手の動きを真剣に見つめる井浦氏

練るだけでも熟練を要する作業ですが、すぐにコツをつかまれました
『空は暁、黄昏れ展』図録からこちらで3点を選び、プリントしていただきました。ご自身も写真作品を制作されていますが、撮影だけでなく、印刷にもご感心をもたれているとのこと。山本工房長からのコロタイプの手順説明に、真剣に耳を傾けていらっしゃいました。

ローラーにインキをつける。均等につけることができるかどうかで、刷上がりが変わってきます
今回初めてコロタイプを体験された井浦さんですが、そのローラー捌きがとても慣れたご様子! お尋ねすると、シルクスクリーンのご経験があり、「昔は、年賀状は版画を彫って、ばれんで刷っていた」と仰っていました。

ゼラチン版にインキング

周囲をマスキング

作品に合う和紙をいろいろと選んで版の上へ

レタープレス機に版をセットし

ハンドルを回して、プレスしていきます

プレス後、和紙をゆっくりと版からはがします

刷上がりはどうでしょうか

和紙の種類の違いや、インキングの違いによって表現が変わってきます
限られた時間のなかでしたが、刷り手の一手でプリントの調子が変化するコロタイププリントの面白さをお楽しみくださいました。

調子の違いをじっくり見ておられました

3作品を、それぞれ違う和紙に濃度や調子を変えて。鳥の子紙の刷上がりが一番気にっておられました
近々本番の取材予定です。本番には、今回のテストの体験を踏まえて、井浦さんがコロタイプしてみたい作品を選ばれます。どんな作品になるか、どんな刷上がりになるか、今から楽しみです! ぜひその様子は書籍にてご覧いただければ幸いです。また刊行の詳細が分かりましたらお知らせいたします!
明治の絵はがき展、東京で開催中!
便利堂 美術絵はがきの歩み展 @神保町
2013.7.16-27 京都便利堂ギャラリーオフィス東京

今年5月に京都で開催した明治の絵はがきの展覧会が、先週16日より東京でも展観中です。場所は便利堂神保町店から徒歩数分にある便利堂東京オフィスのギャラリースペースです。小さなスペースですが、便利堂が明治期に制作した絵はがき200点以上を展示しています。連日多くの方にお越しいただいています。今週土曜日まで開催しておりますので、足をお運びいただけると幸いです。

■「便利堂 美術絵はがきの歩み展-明治の京都 てのひら逍遥-」
会期:2013年7月16日(火)~27日(土)
会場:京都便利堂ギャラリーオフィス東京(岩波書店一ツ橋別館7階)
開催時間:(月~金)12:00~18:00 (土)10:00~15:00
休室日:7月21日
入場無料※入場には入場券が必要です。京都便利堂東京神保町店にて配布しています。

京都展開催に際して出版した『明治の京都 てのひら逍遥』から、簡単に展示の内容を内容をご紹介したいと思います。

『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』
監修/生田 誠 1200円+税 ISBN978-4-89273-100-6
⇒ご購入はこちら
明治の絵はがきとコロタイプ
展示されている絵はがきのうち、初期のもの(明治35年~38年前半)はリトグラフ(石版画)あるいは木版画です。これは、絵はがきの原画がカラー作品であり、当時の技法としてカラー表現できるのは先に挙げた二つの技法に限られていました。
明治38年の前半から、京美人や京都の名所を写真で絵はがきにしたものが多くなってきます。当時、写真を美しく表現できるのはコロタイプでした。コロタイプはモノクロでしたので、手で着色したカラー写真の絵はがきもあります。

「清水寺 本堂」明治40年1月1日発行 コロタイプは細かな部分も鮮明に見えます。舞台にいる人たちの表情やいでたちも拡大するとはっきり確認でき、今にも話し声が聞こえてくるほど、生き生きとした情景を表現しています。
コロタイプ(collotype)とは、写真草創期の19世紀中頃に多彩に存在した写真プリントの技法のひとつです。19世紀当時の写真プリントは画像の保存性が低く、次第に退色変色する欠点がありました。それを補うために顔料を用いるさまざまなプリント方法が考案されましたが、そのなかで確立された技法のひとつがコロタイプです。⇒コロタイプについて詳しくはこちら
コロタイプの大きな特徴は次のふたつです。
①網点のない精緻な表現
現在の一般的な印刷は、写真画像をドット(網点)に置き換えて表現します。ルーペで拡大すると、大小や密度で画像が形成されていることがわかります。一方コロタイプは、写真プリントの技法ですので写真のフィルムをそのまま版に使います。したがってフィルムに移っている情報を余すことなく表現でき、網点のないなめらかで豊かな諧調表現が可能です。絵はがきを拡大すると、人の表情や看板の文字までも読み取れるほどです。
②コロタイプは写真画像を永く保存するために発明されました。明治時代の絵はがきも100年以上経過していますが、最近印刷したようにしっかり画像が残っています。これは耐光性・耐候性に優れたコロタイプ専用の顔料インキを用いてるためです。この高い保存性から、現在では古美術などの文化財を後世に遺し伝えるための複製に活用されています。
第1章 私製はがきの認可と便利堂絵はがきのはじまり

明治33(1900)年に私製はがきの使用が認可されると、東京や大阪などで絵はがきの発行が本格的に始まります。当時は「便利堂書店」とも称し、貸本売本や出版を営んでいた当店も絵はがきの制作販売をはじめました。現存しているもので最も古いものは明治35(1902)年に画家、歌人の田中美風の短歌に絵はがき12枚を組み合わせた「帰雁来燕」という和綴本の絵はがき帖(小冊子)です。これは京都でも最も早い絵はがきセットのひとつ。このデザインの元になったのは、西洋の最新の絵はがきでした。

「帰雁来燕」 明治35(1902)年12月23日発行 リトグラフ 12枚組 35銭
第2章 絵はがきブームと京都の画家たち

明治37(1904)年に始まった日露戦争では、日本の勝利に世間が沸き立ち、絵はがきも一躍大ブームを迎えます。便利堂は、京都画壇の大物、鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)を起用して、戦争の様子をポンチ絵風に描く「非美術画葉書」を発行しました。また、今尾景年、鈴木松年、竹内栖鳳、山元春擧といった京都画壇の重鎮4人に描かせた京都らしい艶やかな絵はがきや、当時人気の出てきた野球を題材にした絵はがきなども制作しました。

「時事漫画 非美術画葉書」第1~4輯 絵:鹿子木孟郎 明治38(1905)年2月~5月発行 リトグラフ 7~6枚組 12銭

「葵祭」 絵:鹿子木孟郎 明治38(1905)年5月頃 リトグラフ 6枚組 25銭

「舞姿」 絵:今尾景年、鈴木松年、竹内栖鳳、山元春擧 明治38(1905)年頃 木版 4枚組
⇒復刻版あり。詳しくはこちら

「ベースボール」 絵:佐々木望 明治38(1905)年後半 リトグラフ 4枚組
⇒復刻版あり。詳しくはこちら

「鳥かご絵はがき」 明治38(1905)年頃 リトグラフ
絵はがきブームのなかで多種多様な絵はがきが販売され、そのなかには趣向を凝らした面白い絵はがきも多い。この絵はがきは、鳥の絵の上に、本物の網を貼り込み鳥かごを表現した手の込んだもの。
第3章 文学絵はがきと美人絵はがき

図左が「不如帰(ほととぎす)」 明治37(1904)年12月15日発行 リトグラフ 6枚組 12銭
「帰雁来燕」の次に古い絵はがき。
当時の絵はがきは、美術とともに文学とも密接な関係がありました。便利堂が発行した絵はがき「不如帰(ほととぎす)」と「浪さん」は、ともに徳富蘆花のベストセラー小説が題材で、英文を交えたペン画と、美人画家上村松園の作品を石版画の絵はがきにしたものです。
大阪毎日新聞に連載された菊池幽芳の『夏子』については、連載進行中にコロタイプによる写真絵はがきが発売されました。こうした写真のモデルを務めたのは京都の花柳界の女性たちで、彼女たちの姿を写した美人絵はがきも多数作られています。

「浪さん」 絵:上村松園 明治37(1904)年末~明治38(1905)年1月 リトグラフ 6枚組 18銭
『不如帰』のヒロイン浪子を上村松園が描くシリーズ第2弾

「夏子」 明治38(1905)年7月10日発行 コロタイプ 6枚組 特製(手彩色入、四方金)50銭 並製 25銭
徳富蘆花『不如帰』、尾崎紅葉『金色夜叉』などと並び、家庭小説(明治期に流行した女性向け通俗小説)の王者として人気を博した菊池幽芳が『乳姉妹』に続いて大阪毎日新聞に連載した『夏子』を題材とする小説はがき。当時の広告には「京都一流の美人が夏子に同情を寄せ自ら好んでこれに扮せしを、一力の女将が撮影せしもの」とある。好評を得たもようで大阪毎日の記事には3日間で1万部を売りつくしたとある。

「京美人」 明治38(1905)年前半 コロタイプ 6枚組 12銭
第4章 風景絵はがきとコロタイプ

日本を代表する観光地、京都の名所風景については、東京や横浜のメーカーも競い合うように絵はがきを発行しています。その中でも、便利堂が発行した「京名所百景」は最も数が多く、上製のコロタイプも美しく、洗練された作品でした。

「京名所百景」シリーズ 明治38(1905)年頃 コロタイプ (特製 手彩色)
便利堂が刊行した「京都写真帳第3巻」『京都の山水』(明治36年9月発行)は、多くの新進写真家や素人写真家が撮影を行っており、中でも黒川翠山、小川白楊、内貴橘村(清兵衛)などはのちに京都の斯界において大いに活躍することになる。これ以後も便利堂は彼らに絵はがき原版としての撮影を依頼しており、撮影者のクレジットはないが、「京名所百景」などの風景絵はがきの多くはこうした新進写真家が撮影したものと考えられる。
⇒復刻版あり。詳しくはこちら

「デザイン京名所」 明治40(1907)年頃 コロタイプ リトグラフ

「巨椋の池」 撮影:小川白楊 明治38(1905)年頃 コロタイプ 6枚組
撮影者の小川白楊は本名保太郎、黒川翠山と同じ明治15年生まれ。江戸中期から続く庭師「小川治兵衛」の8代目である。造園家としてだけでなく、写真家、考古学者、茶人としても活躍した。

「雪」 撮影:黒川翠山 明治40(1907)年頃 コロタイプ 3枚組
翠山は、本名を種次郎といい明治15年生まれ。若くして家業の呉服商をつぎ、明治33年、18歳の頃から本格的に写真家を志し独学で研究を進めた。『京都の山水』の掲載作品は、翠山の活動最初期に当たり、これを機縁に以後「京名所百景」などの社寺の建築美や街並み、名勝、祭礼、農耕風景などの便利堂絵はがきの原板を多く撮影した。
第5章 さまざまなモチーフの絵はがき

美人や風景に限らず、便利堂ではさまざまなモチーフ、さまざまなタイプの絵はがきを作っていました。京都を代表する祭りである祇園祭や葵祭、時代祭も絵はがきになりました。子供や農耕風景などの風俗、草花などの絵はがきも人気のモチーフでした。

「祇園祭」 明治39(1906)年頃 コロタイプ

「花」 明治38(1905)年頃 コロタイプ 手彩色
第6章 注文制作の絵はがき

京都を代表する絵はがきメーカーとなった便利堂には、京都の寺社、会社などから多数の絵はがき制作の注文が舞い込むようになります。上の図版の右は法隆寺で販売した大判の絵はがき帖です。全3輯計108種の絵はがきが綴じられていますが、特徴はほぼすべてが「寺宝」ということで、さながら「名宝図録」のようです。それまで「京名所百景」をはじめとする寺院の絵はがきは風景がほとんどでした。明治の廃仏毀釈で一時は危機にさらされた寺院の宝物が、その後の政府の宝物調査や『真美大観』などの美術図録の刊行を経て、一般市民に絵はがきという形で普及し始めたと考えられます。この頃より、古美術の撮影・印刷というその後の便利堂のメインストリームが始まりました。

もっと詳しくお知りになりたい方は、ぜひ『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』をご一読ください!⇒ご購入はこちら
2013.7.16-27 京都便利堂ギャラリーオフィス東京

今年5月に京都で開催した明治の絵はがきの展覧会が、先週16日より東京でも展観中です。場所は便利堂神保町店から徒歩数分にある便利堂東京オフィスのギャラリースペースです。小さなスペースですが、便利堂が明治期に制作した絵はがき200点以上を展示しています。連日多くの方にお越しいただいています。今週土曜日まで開催しておりますので、足をお運びいただけると幸いです。

■「便利堂 美術絵はがきの歩み展-明治の京都 てのひら逍遥-」
会期:2013年7月16日(火)~27日(土)
会場:京都便利堂ギャラリーオフィス東京(岩波書店一ツ橋別館7階)
開催時間:(月~金)12:00~18:00 (土)10:00~15:00
休室日:7月21日
入場無料※入場には入場券が必要です。京都便利堂東京神保町店にて配布しています。

京都展開催に際して出版した『明治の京都 てのひら逍遥』から、簡単に展示の内容を内容をご紹介したいと思います。

『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』
監修/生田 誠 1200円+税 ISBN978-4-89273-100-6
⇒ご購入はこちら
明治の絵はがきとコロタイプ
展示されている絵はがきのうち、初期のもの(明治35年~38年前半)はリトグラフ(石版画)あるいは木版画です。これは、絵はがきの原画がカラー作品であり、当時の技法としてカラー表現できるのは先に挙げた二つの技法に限られていました。
明治38年の前半から、京美人や京都の名所を写真で絵はがきにしたものが多くなってきます。当時、写真を美しく表現できるのはコロタイプでした。コロタイプはモノクロでしたので、手で着色したカラー写真の絵はがきもあります。

「清水寺 本堂」明治40年1月1日発行 コロタイプは細かな部分も鮮明に見えます。舞台にいる人たちの表情やいでたちも拡大するとはっきり確認でき、今にも話し声が聞こえてくるほど、生き生きとした情景を表現しています。
コロタイプ(collotype)とは、写真草創期の19世紀中頃に多彩に存在した写真プリントの技法のひとつです。19世紀当時の写真プリントは画像の保存性が低く、次第に退色変色する欠点がありました。それを補うために顔料を用いるさまざまなプリント方法が考案されましたが、そのなかで確立された技法のひとつがコロタイプです。⇒コロタイプについて詳しくはこちら
コロタイプの大きな特徴は次のふたつです。
①網点のない精緻な表現
現在の一般的な印刷は、写真画像をドット(網点)に置き換えて表現します。ルーペで拡大すると、大小や密度で画像が形成されていることがわかります。一方コロタイプは、写真プリントの技法ですので写真のフィルムをそのまま版に使います。したがってフィルムに移っている情報を余すことなく表現でき、網点のないなめらかで豊かな諧調表現が可能です。絵はがきを拡大すると、人の表情や看板の文字までも読み取れるほどです。
②コロタイプは写真画像を永く保存するために発明されました。明治時代の絵はがきも100年以上経過していますが、最近印刷したようにしっかり画像が残っています。これは耐光性・耐候性に優れたコロタイプ専用の顔料インキを用いてるためです。この高い保存性から、現在では古美術などの文化財を後世に遺し伝えるための複製に活用されています。
第1章 私製はがきの認可と便利堂絵はがきのはじまり

明治33(1900)年に私製はがきの使用が認可されると、東京や大阪などで絵はがきの発行が本格的に始まります。当時は「便利堂書店」とも称し、貸本売本や出版を営んでいた当店も絵はがきの制作販売をはじめました。現存しているもので最も古いものは明治35(1902)年に画家、歌人の田中美風の短歌に絵はがき12枚を組み合わせた「帰雁来燕」という和綴本の絵はがき帖(小冊子)です。これは京都でも最も早い絵はがきセットのひとつ。このデザインの元になったのは、西洋の最新の絵はがきでした。

「帰雁来燕」 明治35(1902)年12月23日発行 リトグラフ 12枚組 35銭
第2章 絵はがきブームと京都の画家たち

明治37(1904)年に始まった日露戦争では、日本の勝利に世間が沸き立ち、絵はがきも一躍大ブームを迎えます。便利堂は、京都画壇の大物、鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)を起用して、戦争の様子をポンチ絵風に描く「非美術画葉書」を発行しました。また、今尾景年、鈴木松年、竹内栖鳳、山元春擧といった京都画壇の重鎮4人に描かせた京都らしい艶やかな絵はがきや、当時人気の出てきた野球を題材にした絵はがきなども制作しました。

「時事漫画 非美術画葉書」第1~4輯 絵:鹿子木孟郎 明治38(1905)年2月~5月発行 リトグラフ 7~6枚組 12銭

「葵祭」 絵:鹿子木孟郎 明治38(1905)年5月頃 リトグラフ 6枚組 25銭

「舞姿」 絵:今尾景年、鈴木松年、竹内栖鳳、山元春擧 明治38(1905)年頃 木版 4枚組
⇒復刻版あり。詳しくはこちら

「ベースボール」 絵:佐々木望 明治38(1905)年後半 リトグラフ 4枚組
⇒復刻版あり。詳しくはこちら

「鳥かご絵はがき」 明治38(1905)年頃 リトグラフ
絵はがきブームのなかで多種多様な絵はがきが販売され、そのなかには趣向を凝らした面白い絵はがきも多い。この絵はがきは、鳥の絵の上に、本物の網を貼り込み鳥かごを表現した手の込んだもの。
第3章 文学絵はがきと美人絵はがき

図左が「不如帰(ほととぎす)」 明治37(1904)年12月15日発行 リトグラフ 6枚組 12銭
「帰雁来燕」の次に古い絵はがき。
当時の絵はがきは、美術とともに文学とも密接な関係がありました。便利堂が発行した絵はがき「不如帰(ほととぎす)」と「浪さん」は、ともに徳富蘆花のベストセラー小説が題材で、英文を交えたペン画と、美人画家上村松園の作品を石版画の絵はがきにしたものです。
大阪毎日新聞に連載された菊池幽芳の『夏子』については、連載進行中にコロタイプによる写真絵はがきが発売されました。こうした写真のモデルを務めたのは京都の花柳界の女性たちで、彼女たちの姿を写した美人絵はがきも多数作られています。

「浪さん」 絵:上村松園 明治37(1904)年末~明治38(1905)年1月 リトグラフ 6枚組 18銭
『不如帰』のヒロイン浪子を上村松園が描くシリーズ第2弾

「夏子」 明治38(1905)年7月10日発行 コロタイプ 6枚組 特製(手彩色入、四方金)50銭 並製 25銭
徳富蘆花『不如帰』、尾崎紅葉『金色夜叉』などと並び、家庭小説(明治期に流行した女性向け通俗小説)の王者として人気を博した菊池幽芳が『乳姉妹』に続いて大阪毎日新聞に連載した『夏子』を題材とする小説はがき。当時の広告には「京都一流の美人が夏子に同情を寄せ自ら好んでこれに扮せしを、一力の女将が撮影せしもの」とある。好評を得たもようで大阪毎日の記事には3日間で1万部を売りつくしたとある。

「京美人」 明治38(1905)年前半 コロタイプ 6枚組 12銭
第4章 風景絵はがきとコロタイプ

日本を代表する観光地、京都の名所風景については、東京や横浜のメーカーも競い合うように絵はがきを発行しています。その中でも、便利堂が発行した「京名所百景」は最も数が多く、上製のコロタイプも美しく、洗練された作品でした。

「京名所百景」シリーズ 明治38(1905)年頃 コロタイプ (特製 手彩色)
便利堂が刊行した「京都写真帳第3巻」『京都の山水』(明治36年9月発行)は、多くの新進写真家や素人写真家が撮影を行っており、中でも黒川翠山、小川白楊、内貴橘村(清兵衛)などはのちに京都の斯界において大いに活躍することになる。これ以後も便利堂は彼らに絵はがき原版としての撮影を依頼しており、撮影者のクレジットはないが、「京名所百景」などの風景絵はがきの多くはこうした新進写真家が撮影したものと考えられる。
⇒復刻版あり。詳しくはこちら

「デザイン京名所」 明治40(1907)年頃 コロタイプ リトグラフ

「巨椋の池」 撮影:小川白楊 明治38(1905)年頃 コロタイプ 6枚組
撮影者の小川白楊は本名保太郎、黒川翠山と同じ明治15年生まれ。江戸中期から続く庭師「小川治兵衛」の8代目である。造園家としてだけでなく、写真家、考古学者、茶人としても活躍した。

「雪」 撮影:黒川翠山 明治40(1907)年頃 コロタイプ 3枚組
翠山は、本名を種次郎といい明治15年生まれ。若くして家業の呉服商をつぎ、明治33年、18歳の頃から本格的に写真家を志し独学で研究を進めた。『京都の山水』の掲載作品は、翠山の活動最初期に当たり、これを機縁に以後「京名所百景」などの社寺の建築美や街並み、名勝、祭礼、農耕風景などの便利堂絵はがきの原板を多く撮影した。
第5章 さまざまなモチーフの絵はがき

美人や風景に限らず、便利堂ではさまざまなモチーフ、さまざまなタイプの絵はがきを作っていました。京都を代表する祭りである祇園祭や葵祭、時代祭も絵はがきになりました。子供や農耕風景などの風俗、草花などの絵はがきも人気のモチーフでした。

「祇園祭」 明治39(1906)年頃 コロタイプ

「花」 明治38(1905)年頃 コロタイプ 手彩色
第6章 注文制作の絵はがき

京都を代表する絵はがきメーカーとなった便利堂には、京都の寺社、会社などから多数の絵はがき制作の注文が舞い込むようになります。上の図版の右は法隆寺で販売した大判の絵はがき帖です。全3輯計108種の絵はがきが綴じられていますが、特徴はほぼすべてが「寺宝」ということで、さながら「名宝図録」のようです。それまで「京名所百景」をはじめとする寺院の絵はがきは風景がほとんどでした。明治の廃仏毀釈で一時は危機にさらされた寺院の宝物が、その後の政府の宝物調査や『真美大観』などの美術図録の刊行を経て、一般市民に絵はがきという形で普及し始めたと考えられます。この頃より、古美術の撮影・印刷というその後の便利堂のメインストリームが始まりました。

もっと詳しくお知りになりたい方は、ぜひ『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』をご一読ください!⇒ご購入はこちら
山口晃画伯のコロタイプ・マルチプル作品を発売!
山口晃《摩利支天像》《五武人図》

箱書を揮毫する山口画伯
藤岡です。
今回は、あたらしいコロタイプ作品をご紹介します。
山口晃画伯の《摩利支天像》《五武人図》のコロタイプによるマルチプル作品です。
画家・山口晃さんは、油絵具を用いつつ、浮世絵や大和絵を思わせる手法で、現代の街や施設、人物や風景を古今東西のイメージに織り込んで細密な筆致で描く「当代の絵師」です。
このブログでは、《コロタイプ/写真》という切り口でお話することが多いですが、
コロタイプは絵画や文書についても圧倒的なクオリティの再現力を発揮します。
便利堂=古美術のイメージですが、当世人気作家の作品も手掛けているんですよ。

《摩利支天像》コロタイプ・マルチプル 限定50部

《摩利支天像》は、とても柔らかい筆づかいながら躍動感があり、コロタイプの表現がもっとも生きる作品といえます。仏さま?馬?バイク?とてもかっこいい掛軸です。

《五武人図》コロタイプ・マルチプル 限定50部

《五武人図》は変わり表具仕立てです。短冊5点を裸の掛軸に「とっても自由に」マグネットで(!)貼りつけてもらいます。《摩利支天像》《五武人図》の両作品とも表具作家・村山秀紀氏の手による京表具仕立てです。
どちらも50部限定の注文販売。専用桐箱には、山口晃さん自筆のサインとエディション記番がはいります。

作品は短冊仕立てになっています。無地の軸装がセットされています。

短冊の裏面にはステンレスシートが仕込まれています(左は添付のマグネットを付けたところ)。短冊を無地の軸装にお好きなように配置していただき、裏からマグネットで留めます。
早い者勝ちですので、興味のある方、現物をご覧になりたい方はお問い合わせください★a-fujioka@benrido.co.jp★。お買い求めはこちら⇒《摩利支天像》《五武人図》
折しも、7月27日(土)から新潟市美術館で、「山口晃展~またまた澱エンナーレ老若男女ご覧あれ~」が開催されます。巡回3会場目となる本展でも、ミュージアムショップに便利堂製の山口晃グッズが並びます。コロタイプの《摩利支天像》《五武人図》も展示・注文販売しますので、お近くの方は是非足を運んでください。
山口晃 コロタイプ・マルチプル作品《摩利支天像》
2012年制作(オリジナル制作年2008年)
コロタイプ3版3色刷
手漉き楮紙
本紙寸法 50×32.5㎝(原本100×65㎝)
掛軸装仕立(外寸140×40㎝)桐箱入
作家による箱書(直筆サイン入エディション記番)
完全限定50部 記番入
189,000円(税込)

山口晃 コロタイプ・マルチプル作品《五武人図》 ~とっても自由なマグネット掛軸~
制作年2012年(オリジナル制作年2003年)
コロタイプ2版2色刷
手漉き楮紙
本紙寸法 27.2×9.6㎝(原本170×60㎝)
マグネット掛軸 桐箱入
短冊(ステンレスシート仕込)5枚組
無地裂掛軸(色:鉄紺あるいは鴬茶 外寸140×28cm)
マグネットピース5粒入
作家による箱書(直筆サイン入エディション記番)
完全限定50部 記番入
105,000円(税込)




箱書を揮毫する山口画伯
藤岡です。
今回は、あたらしいコロタイプ作品をご紹介します。
山口晃画伯の《摩利支天像》《五武人図》のコロタイプによるマルチプル作品です。
画家・山口晃さんは、油絵具を用いつつ、浮世絵や大和絵を思わせる手法で、現代の街や施設、人物や風景を古今東西のイメージに織り込んで細密な筆致で描く「当代の絵師」です。
このブログでは、《コロタイプ/写真》という切り口でお話することが多いですが、
コロタイプは絵画や文書についても圧倒的なクオリティの再現力を発揮します。
便利堂=古美術のイメージですが、当世人気作家の作品も手掛けているんですよ。

《摩利支天像》コロタイプ・マルチプル 限定50部

《摩利支天像》は、とても柔らかい筆づかいながら躍動感があり、コロタイプの表現がもっとも生きる作品といえます。仏さま?馬?バイク?とてもかっこいい掛軸です。

《五武人図》コロタイプ・マルチプル 限定50部

《五武人図》は変わり表具仕立てです。短冊5点を裸の掛軸に「とっても自由に」マグネットで(!)貼りつけてもらいます。《摩利支天像》《五武人図》の両作品とも表具作家・村山秀紀氏の手による京表具仕立てです。
どちらも50部限定の注文販売。専用桐箱には、山口晃さん自筆のサインとエディション記番がはいります。

作品は短冊仕立てになっています。無地の軸装がセットされています。

短冊の裏面にはステンレスシートが仕込まれています(左は添付のマグネットを付けたところ)。短冊を無地の軸装にお好きなように配置していただき、裏からマグネットで留めます。
早い者勝ちですので、興味のある方、現物をご覧になりたい方はお問い合わせください★a-fujioka@benrido.co.jp★。お買い求めはこちら⇒《摩利支天像》《五武人図》
折しも、7月27日(土)から新潟市美術館で、「山口晃展~またまた澱エンナーレ老若男女ご覧あれ~」が開催されます。巡回3会場目となる本展でも、ミュージアムショップに便利堂製の山口晃グッズが並びます。コロタイプの《摩利支天像》《五武人図》も展示・注文販売しますので、お近くの方は是非足を運んでください。
山口晃 コロタイプ・マルチプル作品《摩利支天像》
2012年制作(オリジナル制作年2008年)
コロタイプ3版3色刷
手漉き楮紙
本紙寸法 50×32.5㎝(原本100×65㎝)
掛軸装仕立(外寸140×40㎝)桐箱入
作家による箱書(直筆サイン入エディション記番)
完全限定50部 記番入
189,000円(税込)

山口晃 コロタイプ・マルチプル作品《五武人図》 ~とっても自由なマグネット掛軸~
制作年2012年(オリジナル制作年2003年)
コロタイプ2版2色刷
手漉き楮紙
本紙寸法 27.2×9.6㎝(原本170×60㎝)
マグネット掛軸 桐箱入
短冊(ステンレスシート仕込)5枚組
無地裂掛軸(色:鉄紺あるいは鴬茶 外寸140×28cm)
マグネットピース5粒入
作家による箱書(直筆サイン入エディション記番)
完全限定50部 記番入
105,000円(税込)



コロタイプと絵はがき
明治期の便利堂
美術絵はがきことはじめ

母を中心に4兄弟(明治36年)。図1 前列左より左回り:弥左衛門(33歳)、母・ヤサ、弥二郎(30歳)、伝三郎(25歳)、竹四郎(13歳)
はじめに
今回は、便利堂が書店から絵はがき店へと転換した明治期について少し詳しく触れたいと思います。まずはその前に創業から現在に至る流れを簡単に振り返っておきます。
明治20(1887)年創業。創業者は中村弥二郎、中村家の4人兄弟の次男です。「便利堂書店」とも称し、貸本売本や出版をはじめました。明治34(1901)年、弥二郎は便利堂を長兄弥左衛門に譲り上京、出版社「有楽社」を設立して日本の出版史に独自な一頁を加えました。経営を引き継いだ弥左衛門は、絵はがきブームに機を見て明治38(1905)年コロタイプ工房を開設、書店を絵はがき店に転業し、受注もはじめます。ブームが下火になる明治の末から、社寺や博物館において古美術を撮影し図録や絵はがきを受注制作する事業スタイルを作り上げました。
次に受け継いだ三男伝三郎によって昭和2(1927)年に原色版印刷所が開設されカラー印刷も可能となります。ここにコロタイプと原色版とによる「美術印刷の便利堂」という基礎が確立されました。さらにその後を継ぐ四男竹四郎は、北大路魯山人と共同経営していた「星岡茶寮」を背景に、より大きく便利堂の事業を発展させました。中でも「法隆寺金堂壁画原寸大撮影」はその後の文化財保存において大変意義のある仕事であったといえるでしょう。そして第二次世界大戦の苦難の中で舵取りをし、戦後の我々の時代へと事業をつなぎました。以上が便利堂のあゆみのアウトラインです。

北大路魯山人(右から二人目)と中村竹四郎(左端)。鎌倉・星岡窯の母屋にて(昭和2年頃)
京都の文明開化と便利堂の創業

図2 絵はがき「京名所百景」より「インクライン」(明治38年頃発行)
明治初期の京都の町は維新によってその中心部のほとんどを焼失し、荒廃を極めていました。そのうえ東京奠都(てん と)によって天皇をはじめとして公家やその使用人、一般庶民までもが続々と東京に移住したため御所周辺は大いに寂れ人口は激減していました。そこで、意気消沈し経済的にも深刻な状態に陥っていた都を復興すべく、積極的な西欧近代技術の導入やさまざまな殖産興業政策が推し進められていきました。
明治4(1871)年に「第1回京都博覧会」が開催されます。明治10(1877)年には初代京都駅が完成。明治18(1885)年琵琶湖疏水が着工され、明治23(1890)年に第1疎水が完成しました。この水を利用した水力発電所が開設され、その電力によって蹴上インクライン(傾斜鉄道。図2)が稼働。平安遷都1100年記念の明治28(1895)年には、第4回内国勧業博覧会の誘致にも成功し、それに合わせて日本初の路面電車も敷設されました。便利堂が創業したのは、こうした京都の近代化が足長に進むさなかの明治20(1887)年です。
「錫屋弥左衛門」から「便利堂」へ

図3 錫屋時代の御所の通行手形。 裏面に「錫屋弥左衛門」とある。
創業家の中村家は代々「弥左衛門」を名乗る御所出入りの錫(すず)屋でした(図3)。先代弥左衛門は弥作といい、無学ながらも実直な勤勉家であったといいます。弥作には4人の息子がいました。長男弥左衛門(本名徳太郎、明治3年−大正14年)、次男弥二郎(明治5年−昭和19年)、三男伝三郎(明治11年−昭和5年)、四男竹四郎(明治23年−昭和35年)です(図1)。
時代は滔々と新時代を迎えつつある中、錫屋の商売は次第に細々となり、何か新しい生活の手段を求めねばなりませんでした。そこで長男弥左衛門は親戚の呉服屋に預けられ、修業をすることになりました。残った次男弥二郎は、企画性とユーモアに富む人物で、明治の新しい気風の中で今までにない斬新な文化的事業を目指し、弱冠15歳で貸本店を興します。これが便利堂の始まりです。創業地は錫屋の店舗と住まいがあった「新町通竹屋町南」、現在の本社所在地と同じです。

図4 「貸本目録」草稿(明治23年7月頃)
創業期の資料として「貸本、雑誌、古本、願届書写し」(明治21年11月7日)と「貸本目録」草稿(明治23年7月頃。図4)が残っています。前者には『国民之友』『日本人』をはじめとする雑誌および古書が72冊、後者には哲学、宗教、政治、経済、科学、文学など1200冊が挙げられています。貸本といっても、このような専門書などの硬い本が中心であり、私設図書館といってよいものでした。

図5 明治22(1889)年頃の広告。この広告から、新町の本店以外に「第三高等中学(京都大学の前身)」と「同志社学院(現在の同志社大学)」の前にそれぞれ支店があったことがわかる。また、絵画・意匠を米僊に依頼していたことも判明する。
「便利堂」という屋号は創業当時から用いているもので、弥二郎が名付けたものでしょう。明治22(1889)年頃の広告が残っています(図5)。これを見ると、新刊本・古本の販売、貸本、雑誌・新聞の販売配達といった書店業務だけでなく広告・デザインまで行っています。この「便利」という言葉には、明治の文明開化におけるさまざまな新規的事業を一手に引き受ける、従来にない文化的ビジネスを目指す弥二郎の強い思いが込められているといえます。少し滑稽味を帯びた彼一流のネーミングセンスは、この後も生涯にわたって遺憾なく発揮されます。
出版第1号『文藝倶楽部』と出版人弥二郎

図6 『文藝倶楽部』第1号 (明治22年2月発行)国立国会図書館蔵
創業間もなく出版にも本格的に着手します。存在が確認できている最初の出版物は、明治22(1889)年2月に刊行された滑稽雑誌『文藝倶楽部』です(2号で休刊。図6)。山田美妙による連載小説はじめとして、論文、随筆、狂歌、狂句など多彩なジャンルを含んだ雅俗折衷の雑誌です。日本最大の滑稽雑誌である東京の『団団(まるまる)珍聞』(明治10年創刊)や京都の『我楽多珍報』(明治12年創刊)などにつづいて誕生した『文藝倶楽部』は、同時期の『雅楽多』(明治22年11月創刊)、『京都日報』(明治22年3月創刊)の文芸欄「滑稽大同団結酒連会」と並んで京都の滑稽家たちにとって恰好の活動の場となります。

図7 『便利燈』の出版届控(明治21年9月20日)
ここで注目されるのは、弥二郎の「滑稽趣味」というべきものが草創期からすでに見受けられること、最初の出版が雑誌であること、そして画家であり滑稽家でもある久保田米僊との親密な関わりが初期の便利堂の人脈を形作っていたのではないかということです。図7は明治21年に『便利燈』という二つ折りのPR誌の出版届控です。文面には「中村弥二郎著述、便利堂貸本広告を旨とし、滑稽文を以て新字体に記載せしもの」とあり、『文藝倶楽部』の萌芽を感じさせるものとなっています。
久保田米僊は明治10年代の沈滞していた京都の画界を復興すべく精力的に東奔西走した画家でしたが、『我楽多珍報』創刊時からの主要メンバーであり、戯画を担当する滑稽家でもありました。『文藝倶楽部』では本文挿画とともに表紙絵を寄せています。表紙絵は米僊のほかに富岡鉄斎、望月玉泉(2号は幸野楳嶺に差し替わる)が描いています。

『文藝倶楽部』 鉄斎の表紙絵部分
便利堂の歴史の中で最も関わりの深い画家のひとりである鉄斎との最初の出会いが、おそらくこの表紙絵の寄稿であり、それが米僊の紹介ではないかと推察されます。こうした米僊との交流が便利堂草創期における弥二郎の出版活動の人脈的基盤となったことは想像に難くありません。また「滑稽趣味」「雑誌志向」はその後も出版人弥二郎の大きな柱として続いていきます。このほか、弥二郎時代の出版物として確認できているものは下記のとおりです。
出版物(弥二郎時代)
『ナショナル第三読本 難句弁明』(草稿) 大久保房次郎/訳述 明治25年
『萬理遠征 福島中佐歓迎軍歌』 猪熊夏樹/著 明治26年3月17日発行
『京名所写真図絵』 広池千九郎/著
小川一真/撮影・銅板印刷 明治28年4月1日発行
『天皇陛下皇后陛下御真影』 小川一真/銅板印刷 明治28年5月25日発行
『大葬図鑑』中村弥二郎/編 明治30年3月
『後世への最大遺物』 内村鑑三/著 明治30年7月15日発行
『京都月報 第3号 臨時増刊「花の京都」』
口絵:小川一真/銅板印刷 明治33年3月15日
『謡曲解釈』 関目顕之/著 明治33年10月20日発行
便利堂と内村鑑三

図8 『後世への最大遺物』 内村鑑三/著(明治30年7月15日発行)
ここで特筆すべきはキリスト教思想家、内村鑑三の代表的著述『後世への最大遺物』(図8)の出版です。明治24(1891)年、当時第一高等中学の嘱託教員であった内村が教育勅語奉読式において天皇宸署に最敬礼しなかったことが社会問題化します。この「不敬事件」として有名な一件により、内村は日本中から非難を浴びることになります。東京を追われた内村は各地を流遇したあと京都に逃れてきました。すでに雑誌書籍で内村の思想に触れていたと思われる弥二郎は、持ち前の大胆さで内村を訪ね知遇を得たといいます。弥二郎は明治28年から約1年間、困窮を極めていた内村に中村家の離れを提供し、その縁によって本書が刊行されました。「人は後世に何を遺すのか。金、事業、思想なども一つの遺物である。しかし誰にでも遺すことができるもの、すなわち最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である」と本書は説いていますが、この内村との出会いが精神的転機になったのか、弥二郎は明治34(1901)年に便利堂を長兄弥左衛門に譲り上京、明治36年(1903)年末頃に出版社「有楽社」を設立して、さらに個性的な出版を続けました。

図9 大正10(1921)年。内村鑑三(手前中心)と弥左衛門(左)、伝三郎(右)。弥二郎上京後は、弥左衛門が弥二郎に替って親交を深め、その関係は晩年まで続いた。

図10 内村鑑三の滞在記念の石碑。はなれのあった中庭に記念に建てられた。現在は本社玄関スペースに移設、展示されている。
京都の文化を愛した弥左衛門
弥左衛門は長らく親戚の呉服商に修行に出ていましたが、明治27年から28年初には中村家に戻り弥二郎の仕事を手伝っていたと思われます。先に挙げた多様な出版リストの中で弥左衛門が担当したのではないかと思われるのが、第4回内国勧業博覧会の開催に合わせて出版した『京名所写真図絵』です。京名所案内と博覧会のガイドブックを兼ね備えた本書は、のちに弥左衛門が刊行する京都の文化をテーマとした書籍や絵はがきとの類似性を強く感じさせます。
弥二郎から便利堂を受け継いだ弥左衛門は、伝三郎とともに1年以上の時間を掛けて出版の準備をします。伝三郎は明治36年に結婚して姓を田中に変え、翌年より日露戦争に従軍しますが帰還後は兄の下で長らく活躍しました。明治36年の1年間に出版したものは次の通りです。
出版物(明治36年)
『明如上人御伝記』 中村伝三郎/編 明治36年1月28日発行
『松年画譜』第1巻~第3巻 明治36年
『京都の山水 (京都写真帖第1巻)』 明治36年4月10日発行

図11 『京都の山水 (京都写真帖第1巻)』 題字:富岡鉄斎 表紙絵:竹内栖鳳(明治36年4月10日発行)
京都写真帖付録「Map of Kyoto」 明治36年4月10日発行
『鴨東百美人 前編 (京都写真帖第2巻)』 明治36年4月13日発行

『鴨東百美人 前編 (京都写真帖第2巻)』(明治36年4月13日発行)
『西園山水画帖』 明治36年4月19日発行
『京都名所写真帖』 明治36年5月13日発行
『京都の寺院 (京都写真帖第3巻)』 明治36年9月15日
『京都の桜花 (京都写真帖第4巻)』未刊
『京都の祭礼 (京都写真帖第5巻)』未刊
『春挙画集』第1巻 明治36年11月5日
上期だけで実に10冊近い本を出版しており、弥左衛門の意気込みを感じます。また弥二郎の多様さとは違い、テーマを京都の文化風物に絞り込んだ端正なラインナップとなっています。ほとんどがコロタイプによる写真帖、画集であり、これも弥左衛門の特徴といえるでしょう。
「帰雁来燕」と絵はがきブーム

図12「帰雁来燕」表紙と見開き(明治35年発行)
明治33年に私製はがきの使用が認可されると、東京や大阪で絵はがきの発行が本格的に始まります。この「帰雁来燕」は、時代の流行にいち早く反応して刊行した便利堂最初の絵はがき。歌集に絵はがきが差し込まれたユニークな形態。
弥二郎と弥左衛門とが事業継承する狭間に生まれたのが便利堂最初の絵はがき「帰雁来燕」(明治35年発行。図12)でした。初めに「絵はがき」という新しいアイテムに着目したのは弥二郎でしょう。しかしこの企画を立案し、田中美風に歌と絵を依頼したところで弥二郎は上京してしまいます。この後しばらく便利堂から絵はがきの刊行がないのはこのためだと思われます。「帰雁来燕」の冊子に絵はがきを綴じ込み、読み物を載せるユニークな形式は、有楽社で明治38年1月から刊行した雑誌『月刊絵はがき』(図13)に踏襲されています。

図13 『月刊絵はがき』(明治38年発行 有楽社)

図14 日露戦争で日本軍がロシアのバルチック艦隊を破り、各国が歓喜している様子(『東京パック』第1巻第3号より 明治38年6月発行)。明治37年に始まった日露戦争が絵はがきの利用に火をつけ、翌38年に空前の絵はがきブームを迎えた。
弥左衛門が満を持して再スタートした出版事業でしたが、「京都写真帖」シリーズが未刊に終わり、翌明治37年には新刊がほとんどなかったことからもなかなか厳しい状況だったのではないかと想像されます。すでに明治37年3月創刊の『手紙雑誌』(図15)で早々(はやばや)とブームに乗っていた弥二郎からの助け舟が、有楽社とのタイアップによる絵はがき「不如帰」の企画だったのではないでしょうか。年末に発行された「不如帰」(図16)に続いて明治38年2月に刊行されたのが鹿子木孟郎の風刺漫画「非美術画葉書」(図17)です。有楽社が一世を風靡した風刺漫画雑誌『東京パック』(図18)を刊行したのは同年の4月であり、初期の便利堂絵はがきは多分に弥二郎の影響が感じられます。

図15 『手紙雑誌』第1巻第2号 (明治37年4月発行 有楽社)


図16 絵はがき「不如帰」(明治37年12月発行)

図17 「非美術画葉書」 絵:鹿子木孟郎 (明治38年1月発行)

図18 『東京パック』 第1巻第3号(明治38年6月発行 有楽社)
写真とコロタイプの便利堂へ

図19『京都の寺院 (京都写真帖第3巻)』 表紙絵:山元春挙(明治36年9月15日発行)
当時の便利堂と絵はがきブームの様子を有名な大阪朝日新聞の記者、大江素天はこう述懐しています。
「便利堂の中村弥二郎氏が未練気もなくしにせの古い本屋をやめて絵葉書屋になった。私たちは毎日のように店頭に押かけて月給袋の底をハタいたものである。ハタき足りない時は無論借金である。」(『写真太平記』)

図20 絵はがき「葵祭」 絵:鹿子木孟郎 (明治38年5月頃発行)
書籍の出版から絵はがきへの転換を余儀なくされたものの、ヒット作によって経営も軌道に乗ってくると、弥左衛門の主題である「京都の文化」をモチーフにした絵はがきが増えてきます。「非美術画葉書」の鹿子木には葵祭(図20)や嵐山を描いてもらい、さらに京都の姿を撮影しコロタイプで印刷した絵はがきへとシフトしていきます。これは明治36年に出版した『京都の山水』(図11)『京都の寺院』(図19)の流れを汲む弥左衛門独自の志向であり、その代表が「京名所百景」(図21)シリーズといえるでしょう。そして絵はがきブーム後は、図録・絵はがきの受注制作という今の便利堂の原点となる事業スタイルを確立し、文化財の撮影や印刷物・出版物を通して京都の文化、日本の文化の継承を目指しました。この精神は今も便利堂に引き継がれています。

図21 絵はがき「京名所百景」シリーズ(明治38年頃発行)

図22 絵はがき「祇園祭」(明治39年頃発行)
※『明治の京都 てのひら逍遥』収載原稿を加筆修正しました。

『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』
監修/生田 誠
1200円+税
ISBN978-4-89273-100-6
⇒ご購入はこちら
美術絵はがきことはじめ

母を中心に4兄弟(明治36年)。図1 前列左より左回り:弥左衛門(33歳)、母・ヤサ、弥二郎(30歳)、伝三郎(25歳)、竹四郎(13歳)
はじめに
今回は、便利堂が書店から絵はがき店へと転換した明治期について少し詳しく触れたいと思います。まずはその前に創業から現在に至る流れを簡単に振り返っておきます。
明治20(1887)年創業。創業者は中村弥二郎、中村家の4人兄弟の次男です。「便利堂書店」とも称し、貸本売本や出版をはじめました。明治34(1901)年、弥二郎は便利堂を長兄弥左衛門に譲り上京、出版社「有楽社」を設立して日本の出版史に独自な一頁を加えました。経営を引き継いだ弥左衛門は、絵はがきブームに機を見て明治38(1905)年コロタイプ工房を開設、書店を絵はがき店に転業し、受注もはじめます。ブームが下火になる明治の末から、社寺や博物館において古美術を撮影し図録や絵はがきを受注制作する事業スタイルを作り上げました。
次に受け継いだ三男伝三郎によって昭和2(1927)年に原色版印刷所が開設されカラー印刷も可能となります。ここにコロタイプと原色版とによる「美術印刷の便利堂」という基礎が確立されました。さらにその後を継ぐ四男竹四郎は、北大路魯山人と共同経営していた「星岡茶寮」を背景に、より大きく便利堂の事業を発展させました。中でも「法隆寺金堂壁画原寸大撮影」はその後の文化財保存において大変意義のある仕事であったといえるでしょう。そして第二次世界大戦の苦難の中で舵取りをし、戦後の我々の時代へと事業をつなぎました。以上が便利堂のあゆみのアウトラインです。

北大路魯山人(右から二人目)と中村竹四郎(左端)。鎌倉・星岡窯の母屋にて(昭和2年頃)
京都の文明開化と便利堂の創業

図2 絵はがき「京名所百景」より「インクライン」(明治38年頃発行)
明治初期の京都の町は維新によってその中心部のほとんどを焼失し、荒廃を極めていました。そのうえ東京奠都(てん と)によって天皇をはじめとして公家やその使用人、一般庶民までもが続々と東京に移住したため御所周辺は大いに寂れ人口は激減していました。そこで、意気消沈し経済的にも深刻な状態に陥っていた都を復興すべく、積極的な西欧近代技術の導入やさまざまな殖産興業政策が推し進められていきました。
明治4(1871)年に「第1回京都博覧会」が開催されます。明治10(1877)年には初代京都駅が完成。明治18(1885)年琵琶湖疏水が着工され、明治23(1890)年に第1疎水が完成しました。この水を利用した水力発電所が開設され、その電力によって蹴上インクライン(傾斜鉄道。図2)が稼働。平安遷都1100年記念の明治28(1895)年には、第4回内国勧業博覧会の誘致にも成功し、それに合わせて日本初の路面電車も敷設されました。便利堂が創業したのは、こうした京都の近代化が足長に進むさなかの明治20(1887)年です。
「錫屋弥左衛門」から「便利堂」へ

図3 錫屋時代の御所の通行手形。 裏面に「錫屋弥左衛門」とある。
創業家の中村家は代々「弥左衛門」を名乗る御所出入りの錫(すず)屋でした(図3)。先代弥左衛門は弥作といい、無学ながらも実直な勤勉家であったといいます。弥作には4人の息子がいました。長男弥左衛門(本名徳太郎、明治3年−大正14年)、次男弥二郎(明治5年−昭和19年)、三男伝三郎(明治11年−昭和5年)、四男竹四郎(明治23年−昭和35年)です(図1)。
時代は滔々と新時代を迎えつつある中、錫屋の商売は次第に細々となり、何か新しい生活の手段を求めねばなりませんでした。そこで長男弥左衛門は親戚の呉服屋に預けられ、修業をすることになりました。残った次男弥二郎は、企画性とユーモアに富む人物で、明治の新しい気風の中で今までにない斬新な文化的事業を目指し、弱冠15歳で貸本店を興します。これが便利堂の始まりです。創業地は錫屋の店舗と住まいがあった「新町通竹屋町南」、現在の本社所在地と同じです。

図4 「貸本目録」草稿(明治23年7月頃)
創業期の資料として「貸本、雑誌、古本、願届書写し」(明治21年11月7日)と「貸本目録」草稿(明治23年7月頃。図4)が残っています。前者には『国民之友』『日本人』をはじめとする雑誌および古書が72冊、後者には哲学、宗教、政治、経済、科学、文学など1200冊が挙げられています。貸本といっても、このような専門書などの硬い本が中心であり、私設図書館といってよいものでした。

図5 明治22(1889)年頃の広告。この広告から、新町の本店以外に「第三高等中学(京都大学の前身)」と「同志社学院(現在の同志社大学)」の前にそれぞれ支店があったことがわかる。また、絵画・意匠を米僊に依頼していたことも判明する。
「便利堂」という屋号は創業当時から用いているもので、弥二郎が名付けたものでしょう。明治22(1889)年頃の広告が残っています(図5)。これを見ると、新刊本・古本の販売、貸本、雑誌・新聞の販売配達といった書店業務だけでなく広告・デザインまで行っています。この「便利」という言葉には、明治の文明開化におけるさまざまな新規的事業を一手に引き受ける、従来にない文化的ビジネスを目指す弥二郎の強い思いが込められているといえます。少し滑稽味を帯びた彼一流のネーミングセンスは、この後も生涯にわたって遺憾なく発揮されます。
出版第1号『文藝倶楽部』と出版人弥二郎

図6 『文藝倶楽部』第1号 (明治22年2月発行)国立国会図書館蔵
創業間もなく出版にも本格的に着手します。存在が確認できている最初の出版物は、明治22(1889)年2月に刊行された滑稽雑誌『文藝倶楽部』です(2号で休刊。図6)。山田美妙による連載小説はじめとして、論文、随筆、狂歌、狂句など多彩なジャンルを含んだ雅俗折衷の雑誌です。日本最大の滑稽雑誌である東京の『団団(まるまる)珍聞』(明治10年創刊)や京都の『我楽多珍報』(明治12年創刊)などにつづいて誕生した『文藝倶楽部』は、同時期の『雅楽多』(明治22年11月創刊)、『京都日報』(明治22年3月創刊)の文芸欄「滑稽大同団結酒連会」と並んで京都の滑稽家たちにとって恰好の活動の場となります。

図7 『便利燈』の出版届控(明治21年9月20日)
ここで注目されるのは、弥二郎の「滑稽趣味」というべきものが草創期からすでに見受けられること、最初の出版が雑誌であること、そして画家であり滑稽家でもある久保田米僊との親密な関わりが初期の便利堂の人脈を形作っていたのではないかということです。図7は明治21年に『便利燈』という二つ折りのPR誌の出版届控です。文面には「中村弥二郎著述、便利堂貸本広告を旨とし、滑稽文を以て新字体に記載せしもの」とあり、『文藝倶楽部』の萌芽を感じさせるものとなっています。
久保田米僊は明治10年代の沈滞していた京都の画界を復興すべく精力的に東奔西走した画家でしたが、『我楽多珍報』創刊時からの主要メンバーであり、戯画を担当する滑稽家でもありました。『文藝倶楽部』では本文挿画とともに表紙絵を寄せています。表紙絵は米僊のほかに富岡鉄斎、望月玉泉(2号は幸野楳嶺に差し替わる)が描いています。

『文藝倶楽部』 鉄斎の表紙絵部分
便利堂の歴史の中で最も関わりの深い画家のひとりである鉄斎との最初の出会いが、おそらくこの表紙絵の寄稿であり、それが米僊の紹介ではないかと推察されます。こうした米僊との交流が便利堂草創期における弥二郎の出版活動の人脈的基盤となったことは想像に難くありません。また「滑稽趣味」「雑誌志向」はその後も出版人弥二郎の大きな柱として続いていきます。このほか、弥二郎時代の出版物として確認できているものは下記のとおりです。
出版物(弥二郎時代)
『ナショナル第三読本 難句弁明』(草稿) 大久保房次郎/訳述 明治25年
『萬理遠征 福島中佐歓迎軍歌』 猪熊夏樹/著 明治26年3月17日発行
『京名所写真図絵』 広池千九郎/著
小川一真/撮影・銅板印刷 明治28年4月1日発行
『天皇陛下皇后陛下御真影』 小川一真/銅板印刷 明治28年5月25日発行
『大葬図鑑』中村弥二郎/編 明治30年3月
『後世への最大遺物』 内村鑑三/著 明治30年7月15日発行
『京都月報 第3号 臨時増刊「花の京都」』
口絵:小川一真/銅板印刷 明治33年3月15日
『謡曲解釈』 関目顕之/著 明治33年10月20日発行
便利堂と内村鑑三

図8 『後世への最大遺物』 内村鑑三/著(明治30年7月15日発行)
ここで特筆すべきはキリスト教思想家、内村鑑三の代表的著述『後世への最大遺物』(図8)の出版です。明治24(1891)年、当時第一高等中学の嘱託教員であった内村が教育勅語奉読式において天皇宸署に最敬礼しなかったことが社会問題化します。この「不敬事件」として有名な一件により、内村は日本中から非難を浴びることになります。東京を追われた内村は各地を流遇したあと京都に逃れてきました。すでに雑誌書籍で内村の思想に触れていたと思われる弥二郎は、持ち前の大胆さで内村を訪ね知遇を得たといいます。弥二郎は明治28年から約1年間、困窮を極めていた内村に中村家の離れを提供し、その縁によって本書が刊行されました。「人は後世に何を遺すのか。金、事業、思想なども一つの遺物である。しかし誰にでも遺すことができるもの、すなわち最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である」と本書は説いていますが、この内村との出会いが精神的転機になったのか、弥二郎は明治34(1901)年に便利堂を長兄弥左衛門に譲り上京、明治36年(1903)年末頃に出版社「有楽社」を設立して、さらに個性的な出版を続けました。

図9 大正10(1921)年。内村鑑三(手前中心)と弥左衛門(左)、伝三郎(右)。弥二郎上京後は、弥左衛門が弥二郎に替って親交を深め、その関係は晩年まで続いた。

図10 内村鑑三の滞在記念の石碑。はなれのあった中庭に記念に建てられた。現在は本社玄関スペースに移設、展示されている。
京都の文化を愛した弥左衛門
弥左衛門は長らく親戚の呉服商に修行に出ていましたが、明治27年から28年初には中村家に戻り弥二郎の仕事を手伝っていたと思われます。先に挙げた多様な出版リストの中で弥左衛門が担当したのではないかと思われるのが、第4回内国勧業博覧会の開催に合わせて出版した『京名所写真図絵』です。京名所案内と博覧会のガイドブックを兼ね備えた本書は、のちに弥左衛門が刊行する京都の文化をテーマとした書籍や絵はがきとの類似性を強く感じさせます。
弥二郎から便利堂を受け継いだ弥左衛門は、伝三郎とともに1年以上の時間を掛けて出版の準備をします。伝三郎は明治36年に結婚して姓を田中に変え、翌年より日露戦争に従軍しますが帰還後は兄の下で長らく活躍しました。明治36年の1年間に出版したものは次の通りです。
出版物(明治36年)
『明如上人御伝記』 中村伝三郎/編 明治36年1月28日発行
『松年画譜』第1巻~第3巻 明治36年
『京都の山水 (京都写真帖第1巻)』 明治36年4月10日発行

図11 『京都の山水 (京都写真帖第1巻)』 題字:富岡鉄斎 表紙絵:竹内栖鳳(明治36年4月10日発行)
京都写真帖付録「Map of Kyoto」 明治36年4月10日発行
『鴨東百美人 前編 (京都写真帖第2巻)』 明治36年4月13日発行

『鴨東百美人 前編 (京都写真帖第2巻)』(明治36年4月13日発行)
『西園山水画帖』 明治36年4月19日発行
『京都名所写真帖』 明治36年5月13日発行
『京都の寺院 (京都写真帖第3巻)』 明治36年9月15日
『京都の桜花 (京都写真帖第4巻)』未刊
『京都の祭礼 (京都写真帖第5巻)』未刊
『春挙画集』第1巻 明治36年11月5日
上期だけで実に10冊近い本を出版しており、弥左衛門の意気込みを感じます。また弥二郎の多様さとは違い、テーマを京都の文化風物に絞り込んだ端正なラインナップとなっています。ほとんどがコロタイプによる写真帖、画集であり、これも弥左衛門の特徴といえるでしょう。
「帰雁来燕」と絵はがきブーム

図12「帰雁来燕」表紙と見開き(明治35年発行)
明治33年に私製はがきの使用が認可されると、東京や大阪で絵はがきの発行が本格的に始まります。この「帰雁来燕」は、時代の流行にいち早く反応して刊行した便利堂最初の絵はがき。歌集に絵はがきが差し込まれたユニークな形態。
弥二郎と弥左衛門とが事業継承する狭間に生まれたのが便利堂最初の絵はがき「帰雁来燕」(明治35年発行。図12)でした。初めに「絵はがき」という新しいアイテムに着目したのは弥二郎でしょう。しかしこの企画を立案し、田中美風に歌と絵を依頼したところで弥二郎は上京してしまいます。この後しばらく便利堂から絵はがきの刊行がないのはこのためだと思われます。「帰雁来燕」の冊子に絵はがきを綴じ込み、読み物を載せるユニークな形式は、有楽社で明治38年1月から刊行した雑誌『月刊絵はがき』(図13)に踏襲されています。

図13 『月刊絵はがき』(明治38年発行 有楽社)

図14 日露戦争で日本軍がロシアのバルチック艦隊を破り、各国が歓喜している様子(『東京パック』第1巻第3号より 明治38年6月発行)。明治37年に始まった日露戦争が絵はがきの利用に火をつけ、翌38年に空前の絵はがきブームを迎えた。
弥左衛門が満を持して再スタートした出版事業でしたが、「京都写真帖」シリーズが未刊に終わり、翌明治37年には新刊がほとんどなかったことからもなかなか厳しい状況だったのではないかと想像されます。すでに明治37年3月創刊の『手紙雑誌』(図15)で早々(はやばや)とブームに乗っていた弥二郎からの助け舟が、有楽社とのタイアップによる絵はがき「不如帰」の企画だったのではないでしょうか。年末に発行された「不如帰」(図16)に続いて明治38年2月に刊行されたのが鹿子木孟郎の風刺漫画「非美術画葉書」(図17)です。有楽社が一世を風靡した風刺漫画雑誌『東京パック』(図18)を刊行したのは同年の4月であり、初期の便利堂絵はがきは多分に弥二郎の影響が感じられます。

図15 『手紙雑誌』第1巻第2号 (明治37年4月発行 有楽社)


図16 絵はがき「不如帰」(明治37年12月発行)

図17 「非美術画葉書」 絵:鹿子木孟郎 (明治38年1月発行)

図18 『東京パック』 第1巻第3号(明治38年6月発行 有楽社)
写真とコロタイプの便利堂へ

図19『京都の寺院 (京都写真帖第3巻)』 表紙絵:山元春挙(明治36年9月15日発行)
当時の便利堂と絵はがきブームの様子を有名な大阪朝日新聞の記者、大江素天はこう述懐しています。
「便利堂の中村弥二郎氏が未練気もなくしにせの古い本屋をやめて絵葉書屋になった。私たちは毎日のように店頭に押かけて月給袋の底をハタいたものである。ハタき足りない時は無論借金である。」(『写真太平記』)

図20 絵はがき「葵祭」 絵:鹿子木孟郎 (明治38年5月頃発行)
書籍の出版から絵はがきへの転換を余儀なくされたものの、ヒット作によって経営も軌道に乗ってくると、弥左衛門の主題である「京都の文化」をモチーフにした絵はがきが増えてきます。「非美術画葉書」の鹿子木には葵祭(図20)や嵐山を描いてもらい、さらに京都の姿を撮影しコロタイプで印刷した絵はがきへとシフトしていきます。これは明治36年に出版した『京都の山水』(図11)『京都の寺院』(図19)の流れを汲む弥左衛門独自の志向であり、その代表が「京名所百景」(図21)シリーズといえるでしょう。そして絵はがきブーム後は、図録・絵はがきの受注制作という今の便利堂の原点となる事業スタイルを確立し、文化財の撮影や印刷物・出版物を通して京都の文化、日本の文化の継承を目指しました。この精神は今も便利堂に引き継がれています。

図21 絵はがき「京名所百景」シリーズ(明治38年頃発行)

図22 絵はがき「祇園祭」(明治39年頃発行)
※『明治の京都 てのひら逍遥』収載原稿を加筆修正しました。

『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』
監修/生田 誠
1200円+税
ISBN978-4-89273-100-6
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第2回コロタイプワークショップ募集開始! 8/31日(土)開催!
【第2回ワークショップのお知らせ(レギュラーコース)】

前回ご好評いただきましたコロタイププリントのレギュラーコース・ワークショップを8月31日(土)に開催いたします! 今回も先着7名様です。どうぞお早目にお申込みくださいませ。
コロタイププリントの魅力をより多くの方に知っていただけますよう、便利堂ではワークショップを開催しております。このレギュラーコースでは、コロタイプ印刷の工房見学と、小型プレス機を使っての手刷り体験をすることができます(手刷り体験では、ご自身の写真作品を印刷していただきます)。
★前回のレギュラーコース・ワークショップの様子は⇒こちら
■開催日:2013年8月31日(土)10:00-16:00
※午前中に工房見学、午後にワークショップをしていただきます。
■場所:株式会社便利堂
京都市中京区新町通竹屋町南入(京都市地下鉄烏丸線・丸太町駅下車 徒歩10分)
⇒地図
■定員 : 7名 ※御同伴者様(2名まで)も工房とワークショップを見学していただけます。
■参加費:3,000円
■申込み方法:参加ご希望の方は、7月19日(金)までに、collotype-workshop@benrido.co.jpのアドレスにお名前・ご住所・電話番号をご記入の上お申込みください。後日、担当者から折り返しご連絡させていただきます。
※ご参加が決定しましたら、7月末までに手刷り体験で使用するご自身の作品原稿(データ・印画など)をご送付いただきます。
※お申込みは先着順となります。定員に達し次第、申込みを締め切らせていただきますことご了承ください。

前回ご好評いただきましたコロタイププリントのレギュラーコース・ワークショップを8月31日(土)に開催いたします! 今回も先着7名様です。どうぞお早目にお申込みくださいませ。
コロタイププリントの魅力をより多くの方に知っていただけますよう、便利堂ではワークショップを開催しております。このレギュラーコースでは、コロタイプ印刷の工房見学と、小型プレス機を使っての手刷り体験をすることができます(手刷り体験では、ご自身の写真作品を印刷していただきます)。
★前回のレギュラーコース・ワークショップの様子は⇒こちら
■開催日:2013年8月31日(土)10:00-16:00
※午前中に工房見学、午後にワークショップをしていただきます。
■場所:株式会社便利堂
京都市中京区新町通竹屋町南入(京都市地下鉄烏丸線・丸太町駅下車 徒歩10分)
⇒地図
■定員 : 7名 ※御同伴者様(2名まで)も工房とワークショップを見学していただけます。
■参加費:3,000円
■申込み方法:参加ご希望の方は、7月19日(金)までに、collotype-workshop@benrido.co.jpのアドレスにお名前・ご住所・電話番号をご記入の上お申込みください。後日、担当者から折り返しご連絡させていただきます。
※ご参加が決定しましたら、7月末までに手刷り体験で使用するご自身の作品原稿(データ・印画など)をご送付いただきます。
※お申込みは先着順となります。定員に達し次第、申込みを締め切らせていただきますことご了承ください。
第2回展「コロタイプ手刷りプリントのたのしみ」開催中!
優秀作品決定!
2013.6.25-7.6 便利堂コロタイプギャラリー


受賞者を発表する藤岡支配人
藤岡です。便利堂コロタイプギャラリーで開催中の「コロタイプ手刷りプリントのおもしろさ」展で展示中の、便利堂社員による手刷りプリント。社内ワークショップの様子と参加したみんなの感想は、前回のブログで掲載しました。今回は、ギャラリー来廊者と社員の投票によるコンテストの結果をお知らせします。

手刷り用のレタープレス機⇒くわしくはこちら
開票および結果発表は7月1日(便利堂の創立記念日!)。出品数47点(+番外1点)⇒全出品作の画像はこちら。投票総数は241票(京都199票、東京42票)。作者名は表記されていないので、どれが誰の作品かは知らないままの投票です。さて結果は・・・

◎グッドプリンター賞(得票数第3位・12票)
作品名《高取》
石部祐亮さん(コロタイプ工房・印刷技師)

石部さん(コロタイプ歴18年) 受賞者にはそれぞれ賞状と賞品が授与されました。

◎敢闘賞(得票数第2位・14票)
作品名《喰娘(クーニャン)》
西村敏さん(写真工房・カメラマン)

西村さん(カメラマン歴34年)

◎ユニーク賞(得票数には関係なく事務局で選びました)
作品名《ラブリィー★パパ》
本城克彦さん(写真工房・カメラマン)

本城さん(カメラマン歴18年)

◎社長賞(社長の独断と偏見で選びますが、11票はいっています)
作品名《かぼちゃ》
丹村祥子さん(営業スタッフ)

丹村さん(営業歴2年) 「受賞ポイントはかぼちゃにのせた人差し指です(社長談)」
そして、いよいよ最優秀賞は・・・なんと同票で2名が選ばれております。

◎最優秀賞(得票数第1位・15票)
作品名《湖音庭》
寺谷友美さん(京都国立博物館ミュージアムショップ・スタッフ)

作品名《86》
山内崇誠さん(写真工房・カメラマン)

寺谷さん(ショップスタッフ歴6ヶ月)と山内さん(カメラマン歴13年)
みなさん、おめでとうございます!
5つの賞のうち、カメラマンが3名を占め、印刷技師の石部さんが「グッドプリンター賞」を獲得。あるカメラマンの「落ち着くところに落ち着いた」との自讃コメント(笑)も納得!?寺谷さんの最優秀賞はショップスタッフの存在感を示してもらいました。
それにしても、総数241票中の第1位が15票とは、いかに票が割れたか。開票作業も、ハラハラドキドキの展開でした。みんなの作品は軒並みクオリティが高くて、競われるポイントは、上手に綺麗にプリントできているかだけでなく、題材(目のつけどころ)のおもしろさやプリントの質感、そしてなんとも言えないなにかが作用するのだと思います。
参加者のみなさんからは口々に「楽しかった。またやりたい」との声が聞かれます。順位は関係ない、参加することが楽しい・・・とはいえ、この結果を受けて、みんな内なる闘志を燃やしているはず!わたし自身も、これからはカメラを構えるたびに、意識してしまいそうです。
とにかく、はやくも次回が楽しみです。便利堂創立記念日の恒例行事になるかもしれませんね。展示は7月6日(土)まで続きますので、受賞作はもちろん、みんなのプリントを見に、ぜひ遊びに来てください。そして(投票は終わっていますが)「わたしなら●●●」とこっそり教えてください。
会期 2013年6月25日(火)~7月6日(土)※日曜日は休廊。
12:00~19:00
◆一般投票者の感想◆
「楽しそうで見ていてうれしくなりました」
「モチーフだけでなく、コロタイプというプリント自体にも作品としての要素が生まれるんだ、と実感しました」
「何はともあれ、愛社の心」
「窓から工房の雰囲気も分かり、見にきてよかったです。楽しい企画でした」
「コロタイプの現場が見られるギャラリー、素敵です!!どの作品も個性があって、自然と笑みがこぼれました」
「お一方の作品展もおもしろいですが、この様な個人個人の個性あふれる(写真内容、印刷のやり方)作品展もおもしろかったです。次回もありましたらぜひ見に来させていただきます」
2013.6.25-7.6 便利堂コロタイプギャラリー


受賞者を発表する藤岡支配人
藤岡です。便利堂コロタイプギャラリーで開催中の「コロタイプ手刷りプリントのおもしろさ」展で展示中の、便利堂社員による手刷りプリント。社内ワークショップの様子と参加したみんなの感想は、前回のブログで掲載しました。今回は、ギャラリー来廊者と社員の投票によるコンテストの結果をお知らせします。

手刷り用のレタープレス機⇒くわしくはこちら
開票および結果発表は7月1日(便利堂の創立記念日!)。出品数47点(+番外1点)⇒全出品作の画像はこちら。投票総数は241票(京都199票、東京42票)。作者名は表記されていないので、どれが誰の作品かは知らないままの投票です。さて結果は・・・

◎グッドプリンター賞(得票数第3位・12票)
作品名《高取》
石部祐亮さん(コロタイプ工房・印刷技師)

石部さん(コロタイプ歴18年) 受賞者にはそれぞれ賞状と賞品が授与されました。

◎敢闘賞(得票数第2位・14票)
作品名《喰娘(クーニャン)》
西村敏さん(写真工房・カメラマン)

西村さん(カメラマン歴34年)

◎ユニーク賞(得票数には関係なく事務局で選びました)
作品名《ラブリィー★パパ》
本城克彦さん(写真工房・カメラマン)

本城さん(カメラマン歴18年)

◎社長賞(社長の独断と偏見で選びますが、11票はいっています)
作品名《かぼちゃ》
丹村祥子さん(営業スタッフ)

丹村さん(営業歴2年) 「受賞ポイントはかぼちゃにのせた人差し指です(社長談)」
そして、いよいよ最優秀賞は・・・なんと同票で2名が選ばれております。

◎最優秀賞(得票数第1位・15票)
作品名《湖音庭》
寺谷友美さん(京都国立博物館ミュージアムショップ・スタッフ)

作品名《86》
山内崇誠さん(写真工房・カメラマン)

寺谷さん(ショップスタッフ歴6ヶ月)と山内さん(カメラマン歴13年)
みなさん、おめでとうございます!
5つの賞のうち、カメラマンが3名を占め、印刷技師の石部さんが「グッドプリンター賞」を獲得。あるカメラマンの「落ち着くところに落ち着いた」との自讃コメント(笑)も納得!?寺谷さんの最優秀賞はショップスタッフの存在感を示してもらいました。
それにしても、総数241票中の第1位が15票とは、いかに票が割れたか。開票作業も、ハラハラドキドキの展開でした。みんなの作品は軒並みクオリティが高くて、競われるポイントは、上手に綺麗にプリントできているかだけでなく、題材(目のつけどころ)のおもしろさやプリントの質感、そしてなんとも言えないなにかが作用するのだと思います。
参加者のみなさんからは口々に「楽しかった。またやりたい」との声が聞かれます。順位は関係ない、参加することが楽しい・・・とはいえ、この結果を受けて、みんな内なる闘志を燃やしているはず!わたし自身も、これからはカメラを構えるたびに、意識してしまいそうです。
とにかく、はやくも次回が楽しみです。便利堂創立記念日の恒例行事になるかもしれませんね。展示は7月6日(土)まで続きますので、受賞作はもちろん、みんなのプリントを見に、ぜひ遊びに来てください。そして(投票は終わっていますが)「わたしなら●●●」とこっそり教えてください。
会期 2013年6月25日(火)~7月6日(土)※日曜日は休廊。
12:00~19:00
◆一般投票者の感想◆
「楽しそうで見ていてうれしくなりました」
「モチーフだけでなく、コロタイプというプリント自体にも作品としての要素が生まれるんだ、と実感しました」
「何はともあれ、愛社の心」
「窓から工房の雰囲気も分かり、見にきてよかったです。楽しい企画でした」
「コロタイプの現場が見られるギャラリー、素敵です!!どの作品も個性があって、自然と笑みがこぼれました」
「お一方の作品展もおもしろいですが、この様な個人個人の個性あふれる(写真内容、印刷のやり方)作品展もおもしろかったです。次回もありましたらぜひ見に来させていただきます」