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コロタイプと絵はがき

Posted by takumi suzuki on 11.2013 【コロタイプの歴史】   0 comments   0 trackback
明治期の便利堂
美術絵はがきことはじめ


中村4兄弟
母を中心に4兄弟(明治36年)。図1 前列左より左回り:弥左衛門(33歳)、母・ヤサ、弥二郎(30歳)、伝三郎(25歳)、竹四郎(13歳)

はじめに

 今回は、便利堂が書店から絵はがき店へと転換した明治期について少し詳しく触れたいと思います。まずはその前に創業から現在に至る流れを簡単に振り返っておきます。 

 明治20(1887)年創業。創業者は中村弥二郎、中村家の4人兄弟の次男です。「便利堂書店」とも称し、貸本売本や出版をはじめました。明治34(1901)年、弥二郎は便利堂を長兄弥左衛門に譲り上京、出版社「有楽社」を設立して日本の出版史に独自な一頁を加えました。経営を引き継いだ弥左衛門は、絵はがきブームに機を見て明治38(1905)年コロタイプ工房を開設、書店を絵はがき店に転業し、受注もはじめます。ブームが下火になる明治の末から、社寺や博物館において古美術を撮影し図録や絵はがきを受注制作する事業スタイルを作り上げました。

 次に受け継いだ三男伝三郎によって昭和2(1927)年に原色版印刷所が開設されカラー印刷も可能となります。ここにコロタイプと原色版とによる「美術印刷の便利堂」という基礎が確立されました。さらにその後を継ぐ四男竹四郎は、北大路魯山人と共同経営していた「星岡茶寮」を背景に、より大きく便利堂の事業を発展させました。中でも「法隆寺金堂壁画原寸大撮影」はその後の文化財保存において大変意義のある仕事であったといえるでしょう。そして第二次世界大戦の苦難の中で舵取りをし、戦後の我々の時代へと事業をつなぎました。以上が便利堂のあゆみのアウトラインです。

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北大路魯山人(右から二人目)と中村竹四郎(左端)。鎌倉・星岡窯の母屋にて(昭和2年頃)


京都の文明開化と便利堂の創業

インクライン
図2 絵はがき「京名所百景」より「インクライン」(明治38年頃発行)

 明治初期の京都の町は維新によってその中心部のほとんどを焼失し、荒廃を極めていました。そのうえ東京奠都(てん と)によって天皇をはじめとして公家やその使用人、一般庶民までもが続々と東京に移住したため御所周辺は大いに寂れ人口は激減していました。そこで、意気消沈し経済的にも深刻な状態に陥っていた都を復興すべく、積極的な西欧近代技術の導入やさまざまな殖産興業政策が推し進められていきました。

 明治4(1871)年に「第1回京都博覧会」が開催されます。明治10(1877)年には初代京都駅が完成。明治18(1885)年琵琶湖疏水が着工され、明治23(1890)年に第1疎水が完成しました。この水を利用した水力発電所が開設され、その電力によって蹴上インクライン(傾斜鉄道。図2)が稼働。平安遷都1100年記念の明治28(1895)年には、第4回内国勧業博覧会の誘致にも成功し、それに合わせて日本初の路面電車も敷設されました。便利堂が創業したのは、こうした京都の近代化が足長に進むさなかの明治20(1887)年です。


「錫屋弥左衛門」から「便利堂」へ

「御所通行手形」
図3 錫屋時代の御所の通行手形。 裏面に「錫屋弥左衛門」とある。

 創業家の中村家は代々「弥左衛門」を名乗る御所出入りの錫(すず)屋でした(図3)。先代弥左衛門は弥作といい、無学ながらも実直な勤勉家であったといいます。弥作には4人の息子がいました。長男弥左衛門(本名徳太郎、明治3年−大正14年)、次男弥二郎(明治5年−昭和19年)、三男伝三郎(明治11年−昭和5年)、四男竹四郎(明治23年−昭和35年)です(図1)。

 時代は滔々と新時代を迎えつつある中、錫屋の商売は次第に細々となり、何か新しい生活の手段を求めねばなりませんでした。そこで長男弥左衛門は親戚の呉服屋に預けられ、修業をすることになりました。残った次男弥二郎は、企画性とユーモアに富む人物で、明治の新しい気風の中で今までにない斬新な文化的事業を目指し、弱冠15歳で貸本店を興します。これが便利堂の始まりです。創業地は錫屋の店舗と住まいがあった「新町通竹屋町南」、現在の本社所在地と同じです。

「貸本目録」
図4 「貸本目録」草稿(明治23年7月頃)

 創業期の資料として「貸本、雑誌、古本、願届書写し」(明治21年11月7日)と「貸本目録」草稿(明治23年7月頃。図4)が残っています。前者には『国民之友』『日本人』をはじめとする雑誌および古書が72冊、後者には哲学、宗教、政治、経済、科学、文学など1200冊が挙げられています。貸本といっても、このような専門書などの硬い本が中心であり、私設図書館といってよいものでした。

広告
図5 明治22(1889)年頃の広告。この広告から、新町の本店以外に「第三高等中学(京都大学の前身)」と「同志社学院(現在の同志社大学)」の前にそれぞれ支店があったことがわかる。また、絵画・意匠を米僊に依頼していたことも判明する。

 「便利堂」という屋号は創業当時から用いているもので、弥二郎が名付けたものでしょう。明治22(1889)年頃の広告が残っています(図5)。これを見ると、新刊本・古本の販売、貸本、雑誌・新聞の販売配達といった書店業務だけでなく広告・デザインまで行っています。この「便利」という言葉には、明治の文明開化におけるさまざまな新規的事業を一手に引き受ける、従来にない文化的ビジネスを目指す弥二郎の強い思いが込められているといえます。少し滑稽味を帯びた彼一流のネーミングセンスは、この後も生涯にわたって遺憾なく発揮されます。


出版第1号『文藝倶楽部』と出版人弥二郎

『文藝倶楽部』
図6 『文藝倶楽部』第1号 (明治22年2月発行)国立国会図書館蔵

 創業間もなく出版にも本格的に着手します。存在が確認できている最初の出版物は、明治22(1889)年2月に刊行された滑稽雑誌『文藝倶楽部』です(2号で休刊。図6)。山田美妙による連載小説はじめとして、論文、随筆、狂歌、狂句など多彩なジャンルを含んだ雅俗折衷の雑誌です。日本最大の滑稽雑誌である東京の『団団(まるまる)珍聞』(明治10年創刊)や京都の『我楽多珍報』(明治12年創刊)などにつづいて誕生した『文藝倶楽部』は、同時期の『雅楽多』(明治22年11月創刊)、『京都日報』(明治22年3月創刊)の文芸欄「滑稽大同団結酒連会」と並んで京都の滑稽家たちにとって恰好の活動の場となります。

「便利燈」
図7 『便利燈』の出版届控(明治21年9月20日)

 ここで注目されるのは、弥二郎の「滑稽趣味」というべきものが草創期からすでに見受けられること、最初の出版が雑誌であること、そして画家であり滑稽家でもある久保田米僊との親密な関わりが初期の便利堂の人脈を形作っていたのではないかということです。図7は明治21年に『便利燈』という二つ折りのPR誌の出版届控です。文面には「中村弥二郎著述、便利堂貸本広告を旨とし、滑稽文を以て新字体に記載せしもの」とあり、『文藝倶楽部』の萌芽を感じさせるものとなっています。

 久保田米僊は明治10年代の沈滞していた京都の画界を復興すべく精力的に東奔西走した画家でしたが、『我楽多珍報』創刊時からの主要メンバーであり、戯画を担当する滑稽家でもありました。『文藝倶楽部』では本文挿画とともに表紙絵を寄せています。表紙絵は米僊のほかに富岡鉄斎、望月玉泉(2号は幸野楳嶺に差し替わる)が描いています。

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『文藝倶楽部』 鉄斎の表紙絵部分

 便利堂の歴史の中で最も関わりの深い画家のひとりである鉄斎との最初の出会いが、おそらくこの表紙絵の寄稿であり、それが米僊の紹介ではないかと推察されます。こうした米僊との交流が便利堂草創期における弥二郎の出版活動の人脈的基盤となったことは想像に難くありません。また「滑稽趣味」「雑誌志向」はその後も出版人弥二郎の大きな柱として続いていきます。このほか、弥二郎時代の出版物として確認できているものは下記のとおりです。


出版物(弥二郎時代)

『ナショナル第三読本 難句弁明』(草稿) 大久保房次郎/訳述 明治25年
『萬理遠征 福島中佐歓迎軍歌』 猪熊夏樹/著 明治26年3月17日発行
『京名所写真図絵』 広池千九郎/著 
小川一真/撮影・銅板印刷 明治28年4月1日発行
『天皇陛下皇后陛下御真影』 小川一真/銅板印刷 明治28年5月25日発行
『大葬図鑑』中村弥二郎/編 明治30年3月
『後世への最大遺物』 内村鑑三/著 明治30年7月15日発行
『京都月報 第3号 臨時増刊「花の京都」』 
口絵:小川一真/銅板印刷 明治33年3月15日
『謡曲解釈』 関目顕之/著 明治33年10月20日発行


便利堂と内村鑑三

「内村鑑三『後世への最大遺物』」
図8 『後世への最大遺物』 内村鑑三/著(明治30年7月15日発行)

 ここで特筆すべきはキリスト教思想家、内村鑑三の代表的著述『後世への最大遺物』(図8)の出版です。明治24(1891)年、当時第一高等中学の嘱託教員であった内村が教育勅語奉読式において天皇宸署に最敬礼しなかったことが社会問題化します。この「不敬事件」として有名な一件により、内村は日本中から非難を浴びることになります。東京を追われた内村は各地を流遇したあと京都に逃れてきました。すでに雑誌書籍で内村の思想に触れていたと思われる弥二郎は、持ち前の大胆さで内村を訪ね知遇を得たといいます。弥二郎は明治28年から約1年間、困窮を極めていた内村に中村家の離れを提供し、その縁によって本書が刊行されました。「人は後世に何を遺すのか。金、事業、思想なども一つの遺物である。しかし誰にでも遺すことができるもの、すなわち最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である」と本書は説いていますが、この内村との出会いが精神的転機になったのか、弥二郎は明治34(1901)年に便利堂を長兄弥左衛門に譲り上京、明治36年(1903)年末頃に出版社「有楽社」を設立して、さらに個性的な出版を続けました。

「内村鑑三と弥左衛門、伝三郎(大正10年)」
図9 大正10(1921)年。内村鑑三(手前中心)と弥左衛門(左)、伝三郎(右)。弥二郎上京後は、弥左衛門が弥二郎に替って親交を深め、その関係は晩年まで続いた。

滞在記念
図10 内村鑑三の滞在記念の石碑。はなれのあった中庭に記念に建てられた。現在は本社玄関スペースに移設、展示されている。


京都の文化を愛した弥左衛門

 弥左衛門は長らく親戚の呉服商に修行に出ていましたが、明治27年から28年初には中村家に戻り弥二郎の仕事を手伝っていたと思われます。先に挙げた多様な出版リストの中で弥左衛門が担当したのではないかと思われるのが、第4回内国勧業博覧会の開催に合わせて出版した『京名所写真図絵』です。京名所案内と博覧会のガイドブックを兼ね備えた本書は、のちに弥左衛門が刊行する京都の文化をテーマとした書籍や絵はがきとの類似性を強く感じさせます。

 弥二郎から便利堂を受け継いだ弥左衛門は、伝三郎とともに1年以上の時間を掛けて出版の準備をします。伝三郎は明治36年に結婚して姓を田中に変え、翌年より日露戦争に従軍しますが帰還後は兄の下で長らく活躍しました。明治36年の1年間に出版したものは次の通りです。


出版物(明治36年)

『明如上人御伝記』 中村伝三郎/編 明治36年1月28日発行
『松年画譜』第1巻~第3巻 明治36年
『京都の山水  (京都写真帖第1巻)』 明治36年4月10日発行

「京都の山水」
図11 『京都の山水  (京都写真帖第1巻)』 題字:富岡鉄斎 表紙絵:竹内栖鳳(明治36年4月10日発行)

京都写真帖付録「Map of Kyoto」 明治36年4月10日発行
『鴨東百美人 前編 (京都写真帖第2巻)』 明治36年4月13日発行

京都百美人
『鴨東百美人 前編 (京都写真帖第2巻)』(明治36年4月13日発行)

『西園山水画帖』 明治36年4月19日発行
『京都名所写真帖』 明治36年5月13日発行
『京都の寺院  (京都写真帖第3巻)』 明治36年9月15日
『京都の桜花  (京都写真帖第4巻)』未刊
『京都の祭礼 (京都写真帖第5巻)』未刊
『春挙画集』第1巻 明治36年11月5日


 上期だけで実に10冊近い本を出版しており、弥左衛門の意気込みを感じます。また弥二郎の多様さとは違い、テーマを京都の文化風物に絞り込んだ端正なラインナップとなっています。ほとんどがコロタイプによる写真帖、画集であり、これも弥左衛門の特徴といえるでしょう。

「帰雁来燕」と絵はがきブーム

帰雁来燕2
図12「帰雁来燕」表紙と見開き(明治35年発行)
明治33年に私製はがきの使用が認可されると、東京や大阪で絵はがきの発行が本格的に始まります。この「帰雁来燕」は、時代の流行にいち早く反応して刊行した便利堂最初の絵はがき。歌集に絵はがきが差し込まれたユニークな形態。


 弥二郎と弥左衛門とが事業継承する狭間に生まれたのが便利堂最初の絵はがき「帰雁来燕」(明治35年発行。図12)でした。初めに「絵はがき」という新しいアイテムに着目したのは弥二郎でしょう。しかしこの企画を立案し、田中美風に歌と絵を依頼したところで弥二郎は上京してしまいます。この後しばらく便利堂から絵はがきの刊行がないのはこのためだと思われます。「帰雁来燕」の冊子に絵はがきを綴じ込み、読み物を載せるユニークな形式は、有楽社で明治38年1月から刊行した雑誌『月刊絵はがき』(図13)に踏襲されています。

月刊絵はがき
図13 『月刊絵はがき』(明治38年発行 有楽社)

「バルチック艦隊の撃沈」(東京パック第1巻第3号)
図14 日露戦争で日本軍がロシアのバルチック艦隊を破り、各国が歓喜している様子(『東京パック』第1巻第3号より 明治38年6月発行)。明治37年に始まった日露戦争が絵はがきの利用に火をつけ、翌38年に空前の絵はがきブームを迎えた。

 弥左衛門が満を持して再スタートした出版事業でしたが、「京都写真帖」シリーズが未刊に終わり、翌明治37年には新刊がほとんどなかったことからもなかなか厳しい状況だったのではないかと想像されます。すでに明治37年3月創刊の『手紙雑誌』(図15)で早々(はやばや)とブームに乗っていた弥二郎からの助け舟が、有楽社とのタイアップによる絵はがき「不如帰」の企画だったのではないでしょうか。年末に発行された「不如帰」(図16)に続いて明治38年2月に刊行されたのが鹿子木孟郎の風刺漫画「非美術画葉書」(図17)です。有楽社が一世を風靡した風刺漫画雑誌『東京パック』(図18)を刊行したのは同年の4月であり、初期の便利堂絵はがきは多分に弥二郎の影響が感じられます。

手紙雑誌
図15 『手紙雑誌』第1巻第2号 (明治37年4月発行 有楽社)

不如帰2

不如帰1
図16 絵はがき「不如帰」(明治37年12月発行)

非美術画葉書
図17 「非美術画葉書」 絵:鹿子木孟郎 (明治38年1月発行)

「東京パック」1
図18 『東京パック』 第1巻第3号(明治38年6月発行 有楽社)


写真とコロタイプの便利堂へ

「京都の寺院」
図19『京都の寺院  (京都写真帖第3巻)』 表紙絵:山元春挙(明治36年9月15日発行)

 当時の便利堂と絵はがきブームの様子を有名な大阪朝日新聞の記者、大江素天はこう述懐しています。
「便利堂の中村弥二郎氏が未練気もなくしにせの古い本屋をやめて絵葉書屋になった。私たちは毎日のように店頭に押かけて月給袋の底をハタいたものである。ハタき足りない時は無論借金である。」(『写真太平記』)

1葵祭
図20 絵はがき「葵祭」 絵:鹿子木孟郎 (明治38年5月頃発行)

 書籍の出版から絵はがきへの転換を余儀なくされたものの、ヒット作によって経営も軌道に乗ってくると、弥左衛門の主題である「京都の文化」をモチーフにした絵はがきが増えてきます。「非美術画葉書」の鹿子木には葵祭(図20)や嵐山を描いてもらい、さらに京都の姿を撮影しコロタイプで印刷した絵はがきへとシフトしていきます。これは明治36年に出版した『京都の山水』(図11)『京都の寺院』(図19)の流れを汲む弥左衛門独自の志向であり、その代表が「京名所百景」(図21)シリーズといえるでしょう。そして絵はがきブーム後は、図録・絵はがきの受注制作という今の便利堂の原点となる事業スタイルを確立し、文化財の撮影や印刷物・出版物を通して京都の文化、日本の文化の継承を目指しました。この精神は今も便利堂に引き継がれています。

京名所百景
図21 絵はがき「京名所百景」シリーズ(明治38年頃発行)

祇園祭
図22 絵はがき「祇園祭」(明治39年頃発行)

※『明治の京都 てのひら逍遥』収載原稿を加筆修正しました。

絵はがき本

『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』
監修/生田 誠
1200円+税
ISBN978-4-89273-100-6
⇒ご購入はこちら


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【コロタイプの過去・現在・未来。創業明治20年の京都 便利堂が100年以上にわたって続けているコロタイプ工房より最新の情報をお届けします】
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