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◎コロタイプ150年の歩み――日本はコロタイプの国である
「コロタイプ技術の保存と印刷文化を考える会」第14回研究会【講演】
コロタイプ150年の歩み――日本はコロタイプの国である (抄)⇒全文はこちら
東京都写真美術館 金子 隆一先生

今日はこの「コロタイプ技術の保存と印刷文化を考える会」で、こんなに沢山の人の前で話が出来るということは、光栄というよりも、とにかくとても嬉しいです。コロタイプ印刷について色々な思いがありますし、写真の歴史を研究するなかで、この技術がいかに日本の写真の歴史にとって重要なものであるかということを痛感しているからであります。
今日は、皆様に資料として「写真印刷年表――コロタイプ印刷をめぐって」(下記【表】参照)をお配りしております。基本的にこの年表に沿ってお話をさせていただきます。
この年表に写真集や写真雑誌については個別にデータ的なものを書いております。ここに取り上げたものを全部皆様にお見せするということは、残念ながらスペースの問題、東京から持ってくるという関係がありましてかないませんでしたが、私がする色々な話もさることながら、現物を是非見ていただきたいという思いがあります。そこで、小川一真が日本で最初に商業的なコロタイプ印刷として携わった美術雑誌『國華』創刊号を始めとして、コロタイプ印刷、もしくはそれに関係する他の技術による写真印刷物を今日、ここに持ってまいりました。
まず、私が最初にコロタイプに大変興味を持ったのは、今から30年ほど前、それまで「写真の本道を外れて、間違った方向に進んだつまらないものだ」という評価をされていた、日本の大正期を中心としてピークを迎える日本のピクトリアリズム、絵画主義の芸術写真に興味を抱いたことに始まります。写真雑誌等を手がかりに実際様々なオリジナル作品を見ますと、私には大変面白く、良い作品が沢山あるじゃないかと思いました。何でこれを、本にダメだと書いてあるからダメだと言わなくてはいけないのかという非常に素朴な疑問を持ったのでした。(略)
ヨーロッパやアメリカのギャラリーでは、いわゆる普通の印画紙、銀塩のゼラチン・シルバー・プリントに焼き付けたもの、またピグメント印画法と言われるゴム印画、そしてブロムオイル印画等の特殊な技術、また銀塩ではなくプラチナタイプ、サイアノタイプ等鉄塩を使う様々なものが「オリジナル・プリント」と言われ、手刷りのグラビア、ハンドメイドグラビアとも言われるフォトグラビア、いわゆる網点(スクリーン)を使わない撒粉式のグラビア印刷で刷ったプリントも、それと同等のものとして扱われています。
アルフレッド・スティーグリッツが編集した『カメラワーク Camera Work』という雑誌がございます。1903年に創刊された雑誌で、全部で50冊出ておりますけれど、これは非常に精巧なフォトグラビア印刷です。そのリーフがオークション等で1点100万円、200万円という単位で取引されるということが現実としてありました。実際にそういうものを東京都写真美術館で100万円単位で購入したものもございます。ヨーロッパやアメリカの人たちには、フォトグラビアの印刷物は「オリジナル・プリント」なのです。
では「コロタイプの印刷物はどうなのか」と、ある研究者に訊ねました。ジェフリー・ギルバートという人ですが、ギャラリーも経営し、研究者としても非常に業績のある方です。その彼に言わせれば「フォトグラビアはハンドメイド、手で刷るけれども、コロタイプは機械的なもの、メカニカルなものだからそれはオリジナル・プリントと言うことはできない」というのです。「そうか」と私は思いました。が、同時に「でも」とも思ったのです。
私が興味を持った日本のピクトリアリズム芸術写真のなかで、淵上白陽が編集したコロタイプ印刷による雑誌『白陽』のリーフはとても素晴らしいです。それをもって私は初めて日本のピクトリアリズムについての論考をカメラ雑誌に書くことができました。
そこで「日本ではフォトグラビアはあるのか」と調べると、無いんです、その歴史が。1906年、『写真月報』1月号(第11巻第1号)に結城林蔵という研究者が、フォトグラビア法の見本として、写真家・渡辺進が撮影した「肖像(ポートレート)」を凸版印刷合資会社の印刷で掲載しています。そういうことは出てくるのですがそこから先は無い。フォトグラビアの歴史というのは、勿論アンダーグラウンドで目に見えない形では色々あったかとは思いますけれど、表には出てこない。日本にはそのフォトグラビア印刷がないとすると、芸術写真の歴史のある部分が無いということになってしまいます。「これはおかしい。あるじゃないか、ここに」というのが、私が「コロタイプ」に直接的な興味を持った最初でございます。

この「コロタイプ」という印刷技術は、ヨーロッパやアメリカではどうだったのでしょうか。確かにジェフリー・ギルバートが言う通り、機械的なものとしていわゆる学術報告などで使われることはあったとしても、それ以上の、芸術的なものを印刷する技術としては大成しませんでした。勿論幾つかあるかもしれませんが見ることが出来ません。
それでは日本ではどうだったのか。日本の「コロタイプ」は、明治の末から大正時代をピークとして昭和まで続くピクトリアリズムを標榜した芸術写真を、まさに「オリジナル・プリント」と言っていいクォリティーを持って十二分に再現する印刷技術として花開いているわけです。このことをもっと強く言わなくてはいけないのではないかとずっと思っています。
幸いにして私は、外国で色々な日本の写真の展覧会企画に関わる機会を得ることが出来ました。そういうなかで私の経験したことを話し、日本のコロタイプ印刷によるプリントが、フォトグラビアと同等の存在であるということを理解させることが出来ました。それはとても簡単なことでした。現物を見せれば理解してもらえたのです。彼らは日本のコロタイプ印刷がどういうものであるのかということを直接に見ることがなかったのです。直接見れば、それは、彼らが素晴らしいと言っているフォトグラビアによる作品と比べてと何の遜色もない、ある意味ではそれ以上のクォリティを持っている印刷物が、まさに「オリジナル・プリント」として目の前にあるということを十人が十人、見れば一発で理解してもらえたという経験をいたしました。それ故に、今や日本の大正時代を中心とするコロタイプの印刷物は「オリジナル・プリント」として世界的にも認知され、様々な美術館で展示するという機会を、正当に展示するという機会を得ることが出来たのです。
冒頭に、私の極めて個人的な事を話をさせていただきました。実はこの個人的な気持が「コロタイプ150年の歩み│日本はコロタイプの国である」というやたら大声で叫んでいるようなタイトルにしているのです。それは、今言いました私の経験から発していることです。日本はコロタイプの国なんです。残念ながらフォトグラビアの国ではありません。グラビア印刷の国になるのは戦後になってからであります。まず写真印刷の歴史はどういうものであるのか、ということについて簡単にお話をさせていただいて、そのなかでコロタイプという技術がどういうものであるのかということをお話しさせて頂きたいと存じます。
年表に沿ってお話をさせていただきます。まず、最初の「1822年 ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(仏)がカメラによって得られる像の定着に成功して〈ヘリオグラフィー(Heliographie)〉と名づける」。露出時間、約八時間かかる撮影法です。感光材料としては、アスファルトピッチというもの、現像にはラベンダーオイルを使います。それは、腐食させればそのまま写真の凹版の製版が出来るのです。つまり、これはよく言われることですが「写真術の始まりは写真印刷術の始まりである」というのは、このヘリオグラフィーを始まりとするとそうなります。その後1839年のダゲレオタイプ(銀板写真)の発明、1841年のタルボットの紙ネガ/ポジ法の特許というところでいわゆる写真術の発明は確立していきます。(略)いわゆる写真というもの、銀塩の写真というものは保存性が悪い。それは写真術が発明された当初から分かっていたことでした。(略)
それではどうすればよいか。ピグメントに置き換えればいい。ピグメントはそれこそずっと、千年という歴史の中でその耐久性はすでに証明されているので今さら強制劣化試験なんかする必要もありません。千年のモノがすでにあるわけです。だから銀がダメならインキにしよう、というところからダゲレオタイプを製版して画像を作るとか、タルボットが腐食鋼板を版とするフォトグリフィック法など様々なものが考案され、凹版、平版、凸版とつながっていきます。そのなかで、いわゆる平版の写真印刷技術として確立しするのは、1869年ドイツのヨセフ・アルベルトが発明し、完成させたコロタイプ法であります。⇒参照「コロタイプとは?」
このコロタイプ法は、混ぜると光に対して感光性を持つ、いわゆる光に当たったところが硬くなり、光に当たらなかったところは柔らかいままで残るという状物質と重クロム酸カリ、重クロム酸アンモニウムなどの重クロム酸塩の混合物がもつ原理、現象を利用したものです。それを1855年に発見したのがアルフォンス・ポワトヴァンという人であります。つまり写真の製版は全てこのポワトヴァンから始まるといっても決して言い過ぎではないと思います。
そして、そのヨセフ・アルベルトのコロタイプ法の完成から10年後、1879年カール・クリッチェ、チェコの人ですけれども、その人がアスファルト粉末を使ったフォトグラビア(撒粉式グラビア印刷)法を完成させます。そしてその次の年にアメリカ人のS・H・ホーガンが、スクリーン(網版)を使った写真網目版法凸版を考案します。大体19世紀、1880年代で平版、凹版、凸版の写真印刷技術、しかもスクリーンを使ってという現在の写真印刷の基本的な枠組みというのは出来たようです。
この時代はもう一つ大きい「写真の技術」ということで考えると、ゼラチン乾板が出来て、その工業化、産業化が行なわれていく時と丁度重なっていきます。ですからまさにここで写真術というもののインフラが大きく転換するという時代に、写真印刷術の基本的な技術の枠組みも大体出来上がってきた、と考えてもよろしいのではないでしょうか。
そして、では日本ではどうだったのか、という話になります。1862年、日本で、厳密に言うと二番目ですけれど、長崎で営業写真館を開いた上野彦馬という人がいます。その人が書いた『舎密局必携』という本があります。これは、今風な言い方をすれば「化学ハンドブック」というものであります。その本のなかで写真の撮影技術、コロジオン湿板による写真の撮影技術、「撮形術 ポトガラヒー」という附録がつき、さらにその附録として「写真石版法」がそこに載っております。ですが、実際に彦馬がやっていたのかということの事跡は残念ながらわかりません。(略)
そしてその写真石版という技術ですが、これはいわゆる網版を使わないでしかもレチキレーションも使わないで諧調を出そうとする技術なんです。しかし、残念ながら安定しません。つまり白黒だけの線画というんでしょうか、線画を作る分には明快な技術なんですけれど、つまり写真のグラデーションを出すには非常に困難なものでありました。これは日本のみならず、世界的にも写真の諧調を印刷する技術としてこの写真石版法というのは安定した技術へと発達をしておりません。
そしてそれが改良されるというか、それではないもう一つの技術がコロタイプです。小川一真がコロタイプ印刷を日本に導入します。その他にもほぼ同じ時期にコロタイプの印刷を研究したという人は沢山おります。光村利藻もその一人であります。小川一真のその技術というのは、やはりアメリカ仕込みということもありまして圧倒的な技術力を持っておりました。非常に安定した技術ということです。
つまり、印刷技術がもちろん一枚を作るということ以上に、同じものをどれだけ大量に作れるかということはとても重要なことです。先程申しましたように、写真の印刷「photography in ink〈印刷された写真〉」は先ず最初に保存法として考えられましたが、同時に大量複製技術としてのポテンシャルを持つものであるということにすぐ気が付くわけです。そう考えた時にその複製技術は印画紙に焼き付けることとは桁が違う。印画紙だったら10枚単位なのが印刷ならば100枚単位。今では何百万という単位を瞬時に、というのは大げさな言い方ですけれど、短い時間に大量に複製を作ることが可能になっています。そういうポテンシャルを持つ技術である、と見ることは重要な見方ではないかと思います。それがどれだけ安定して、いつも同じようにできるか。写真術というのは実験ではなく、常に実用的な技術、安定した技術として発展し、世の中を変えて来ていると思います。

『國華』創刊号 小川一真によるコロタイプ図版「興福寺 無著像」
そして岡倉天心やフェノロサなどと関わって、小川一真は1889年に、美術雑誌『國華』を創刊します。その一番最初が有名な興福寺の「無著像」。写真はもちろん小川一真自身によって撮られたものであります。そして日本のコロタイプの印刷技術というものが、小川一真によって非常に高いレベルが作り出されたということは認めていいことではないかと思います。(略)
この会場の前の方に日清戦争、日露戦争のアルバムが並べてあります。日清戦争はコロタイプです。日露戦争は写真網目版で、日清戦争は十九世紀の戦争、日露戦争は20世紀の戦争でありまして、この日露戦争の直前に小川一真はアメリカに行き、写真網目版の技術を学んでまいります。そして日露戦争の写真帖を次々と発刊をしていきます。日清戦争の時代と日露戦争の時代は何が違うか。コロタイプと写真網目版の違いというのは何か、ということですが、先ず、決定的に部数が違う。コロタイプ印刷だと百単位、それに対して網目版はいうまでもなく千単位、万単位が元々可能な写真印刷の技術であります。それともう一つ、写真網目版はつまり凸版ですから活字と一緒に印刷することが出来る。今日につながる視覚メディアというものを可能にする、そういうものを生み出していったといっていいのではないでしょうか。(略)
そして冒頭に私の個人的な経験、ということで申し上げた芸術写真の問題でございます。その芸術写真というものは、オリジナル・プリントを第一義とするもので、印刷物として写真を見せるのではなく、1枚の印画紙に焼き付けたもの、もしくはピグメント印画法で手作りで作られたものそのものを見せるということで成立をしていると言っていいでしょう。絵画の規範を写真に持ち込む、となった時に、当然の如く絵画の持っている1点制作、つまりタブローというものが写真の中に持ち込まれたと言っていいのではないかと思います。そういった、プリントがそこにあるわけでございます。
しかしそれは、展覧会では見せることは出来るけれど雑誌や本という形の中では不可能であります。ところが1920年代の終わりから1930年代に始まる近代写真においては写真の機械性が注目されることによって最初から写真印刷物、写真集というものがオリジナルなものとして考えられていくということがあるわけですけれども、ピクトリアリズムの芸術写真の時代は、そういうことではございません。まだまだ1枚1点主義と言っていいと思います。そういう中でコロタイプによる写真印刷というものがまさにその芸術写真というものの再現する一番最適で優れた技術として使われていきました。
【表】に「『写真例題集』(桑田商会)が1904年月例の懸賞写真募集を目的に創刊される。(コロタイプ印刷は桑田商会による)」と書いているところがあります。その『写真例題集』も本日持ってまいりました。『写真例題集』、これは懸賞募集なのです。毎月お題が出るんです。「日の出」とか「海」とか「来月は○○です」と。そうするとアマチュア写真家達はそれに応募します。それで1等、2等と入選すると撮影原板を提出するんです。その当時ですと通常は、ガラス乾板です。つまりガラス乾板からダイレクトに製版して印刷です。撮影原板なんです。つまり、印画紙に焼き付けたオリジナルを複写してそれを印刷するのではない。そういう注意書きがあるんですね。ガラス乾板を送れ、と。送れない場合は焼き付けたプリントでもかまわない、ただその時は出来が悪くても文句を言わないでね、と。つまりこの『写真例題集』においては、ネガ(原板)があってそれからプリントを作るということとネガがあってそれからコロタイプを作るっていうことが全く同列のものとして考えられていました。このような考え方が日本のコロタイプ印刷のなかの根底に、芸術写真に係わる人たちの間で決定的に成立をしていたということはとても大事なことではないかと思います。
つまり芸術写真のプリントは、印画紙に焼き付けてもピグメント印画法であっても基本的に1点主義です。しかし実はコロタイプという技術を獲得することは、最初から五百、千とか複数存在することを可能にする芸術写真の写真芸術のプリント法として、明治の終わりに持つことが出来たということは、その後の日本の芸術写真の印刷物を見る上でとても重要なことになっていくのではないかと思います。

そしてその隣に並べてありますのが1914年に刊行された『湖北 写真印画集』です。飯田湖北というこれは東京の人です。奥付に飯田鉄三郎と書いてございますがこれは飯田湖北の本名でございます。言ってみれば自費出版というものですね。コロタイプ印刷は桑田商会によっています。これも関西です。
そして1922年、福原信三が写真作品集『巴里とセーヌ』(写真芸術社)を刊行し、先程申し上げました1922年に淵上白陽が写真雑誌『白陽』(白陽画集社)を創刊します。(略)いわゆるチップイン方式、図版を刷ってそれを本紙に貼り付けてそしてそれを雑誌で紐で綴じてある。もしくはホッチキスで綴じてあるという写真雑誌であります。さっと見ていただくだけでも、そのコロタイプ印刷のクォリティーが非常に高いものであり、そのオリジナルプリントの持っているその良さというものをダイレクトに伝えていると私は思います。(略)
そして今、私はピクトリアリズムの芸術写真というものの技術として、このコロタイプ印刷の持っているポテンシャルを日本は獲得し、それを推進してきた、というようなお話をしたつもりでございます。いわゆるピクトリアリズムの芸術写真というものは、1920年代の終わりから30年代に始まるその当時、日本では新興写真と言われた近代的な写真表現の動向の中で否定されます。それは「写真の本質に帰れ」という言い方でいいと思います。つまり、写真だけにしか出来ない表現を目指せ、ということであります。それはレンズのシャープな描写力、ゼラチンシルバープリントの印画紙が持っているマチエールと諧調、そして早いシャッタースピードで瞬間を留めることができる等々、写真だけにしか出来ない技術。それこそが写真表現のこれからの未来を切り開くものだ、という風に言った時に、絵画の真似をしている芸術写真というのはとんでもない噴飯物に見えるわけです。「あいつらは間違っている」と。あるいは「写真の本質を忘れた退廃である」という風にして。
日本だけではございません。世界中でピクトリアリズムを標榜した芸術写真というものが否定され、その後の新しい近代的な写真表現というものが今に至るまで続いていると言っていいと思います。ではその近代的な写真表現というなかで、いわゆる写真の印刷技術というものはどうであったのか、ということです。コロタイプの印刷は、まさにその芸術写真の技術と共に歩んできたと言っていいと思います。
フォトグラビア(撒粉グラビア)というものはなぜか日本では発達せず、いわゆる輪転グラビア、メディアと非常に結びついた印刷技術として日本では始まっていきます。グラビア、あのグラビアアイドルのグラビアです。ですから「グラビア」と言った時には、大量に複製される雑誌の口絵という印象がありました。グラビアページと言った時に日本人はそう思いますよね。こう思うのはどうも世界的に見て日本人だけのようです。外国の人はグラビアページと言っても、我々のような認識は持たないようです。それは、欧米ではグラビア印刷は一点一点のアートとして、オリジナルプリントとしてのフォトグラビアを経て大量生産の近代的なグラビア印刷に展開していくということがあるわけですが、日本では、いきなり雑誌の口絵のかたちでメディア化されたところから始まっているからではないかと思います。
それに対して、写真網目版つまり写真凸版、銅の凸版で、日本ではこれを原色版という言い方をしますが、原色版による印刷術は、ずっと写真芸術の表現を伝える印刷技術として明治から使われてきております。そのことがあったがゆえにではないかと思いますけれども、1930年代において東京を中心とした様々な新しい近代的な写真表現を推進していくようなものは写真凸版、多分原色版で刷られているものが多いです。
1933年に出版された堀野正雄という人の『カメラ・眼×鉄・構成』も写真凸版で印刷をされております。そして同じく東京で『光画』という写真雑誌がございますが、これも原色版です。これは野島康三、木村伊兵衛そして芦屋の中山岩太、その三人が同人として創刊した雑誌です。これも原色版つまり写真凸版で作られています。写真凸版は非常に明快な、メリハリの効いたトーンを再現することが可能であるという認識を当時持っていたようであります。それ故に、そういった新しい近代的な写真表現を代表するような作品を印刷するにふさわしい技術として使われておりました。
ところがその同じ年に出版された、近代的写真表現を代表する浪華写真倶楽部の小石清の『初夏神経』という写真集があります。これは実はコロタイプで刷られています。つまり、コロタイプの印刷が近代的な写真表現というものが持っている機械的な再現性、そういったものまでも含みうるそういうパワーを、実はポテンシャルを持っているということをもっと認識しなくてはいけないのではないかと思いました。
実際、このコロタイプというのが、私の中ではずっとピクトリアリズムの写真表現と分かちがたく結びついていて、その後の近代的な写真表現に替わったときにはそれは捨て去られていくもの、と思っておりました。東京ではそうでした。でも関西ではそうではなかった。実はこれはこの講演のお話をするために色々調べていくなかで気が付いたことなんです。残っているコロタイプのものをいくつか見ると、東京では全部新しい写真凸版やグラビアにどんんどん変わって行くのに、関西ではコロタイプがずっと残り、様々な近代的な写真表現を印刷する技術として使われているということがとても興味深く思いました。これがなぜかということについては全く分かりません。ただ、そういったようなことが目に付いた、ということを今ここではお話することが出来るだけであります。

右より、飯田湖北『湖北 写真印画集』、福原信三『巴里とセーヌ』、淵上白陽『白陽』、小石清『初夏神経』
でもこの小石清の『初夏神経』、めちゃめちゃにウルトラモダンです。だって表紙がアルミの金属です。スパイラル綴じ。写真はたった10点しか入っていない。大体300部くらいしか作られていない本であります。今日、そのオリジナルも持ってきてありますので是非、手にとって見ていただきたいと思います。コロタイプ印刷なんです。でもコロタイプ印刷でありながらハイコントラストが非常に強い。一枚目の写真がそうなんですけれど、黒と白のパカッと分かれた調子を再現しております。実際、そういうインパクトの強いイメージこそが近代的写真表現を代表する表現技法であるとして、多くの人がハイコントラストやブレ、フォトグラムを使っております。コロタイプがそういう技術、表現というものを十二分に伝えうる印刷技術としてのポテンシャルを持っていたということを証明しているということは、今とても重要なことではないかと思います。

植田正治『童暦』コロタイプポートフォリオ
今日皆さんの周りにフレームに入れられた植田正治さんの『童暦』のコロタイプによるポートフォリオが並んでおります。このポートフォリオ制作にあたって、監修というかお手伝いをさせていただきました。その時には「植田正治が生きていたらきっと喜んでコロタイプ印刷でポートフォリオを作ろうっていうよね」という非常に単純なのりで「やろうやろう」と乗った口であります。実際にやってみて、見ていただければ分かると思いますけれど、私はむちゃくちゃな要求を致しました。訳の分からない無理な要求としてきっと現場の方はむっとされたと思います。そんな要求に対して私がこれは、と思ったようなかたちで、もしくはそれ以上のレベルでクリアして、説得力のある印刷物になったのがこのポートフォリオだと思っております。
それは「植田正治」という非常に限定的な適用だから可能とその時は思っておりましたが、今回のこのお話をさせていただく機会を得るなかで、もう一度色々調べたり、物を見たりする中で「待てよ」と。コロタイプという印刷技術というものは、小石清の『初夏神経』というウルトラモダンな写真集を十分に、十二分に支えた印刷技術であるという事を考えると、今日、コロタイプという印刷技術というものは、今日の現代アートと言われる写真表現、そういったものも十二分に支えうる、もしくはそれを推進するポテンシャルを持っているということを、今まさにここでこの私が並べたものを見ていただくことによって、少しでも理解していただけるのではないかと思っております。
コロタイプの技術には、いわゆる過去の歴史のなかに素晴らしいものがあるということは確かです。でもその可能性、そのポテンシャル、潜在能力を今、私達がどれだけ引き出すことが出来るかということは、すごく問われていることなのではないかと思います。まさにこの「コロタイプ技術の保存と印刷文化を考える会」ということで皆さんここにおいでになっている訳ですけれど、この印刷文化を考えるのは、過去に向けて考えるのではなく、また今、その技術を保存するということを考えるのではなく、未来へ向けて考えなくてはいけないと思います。過去の歴史のなかでやってきたことを見れば今その技術というものがどれほど多くの可能性を持っているのかということが分かるはずだと思います。
その「これからの可能性」ということを皆さんと一緒に考えていくことが出来たら私はとても嬉しいことであります。そして今日の私のこの話のタイトルで使った「日本はコロタイプの国である」ということについて、「違うよ」という方もあると思いますが、「恥ずかしいことをいうなよ」と言うかも知れませんが、やはり恥ずかしげもなく私は「日本はコロタイプの国である」と言いたいと思いますし、実際にそれは、特に外国のヨーロッパやアメリカの人達に是非声を大にして言いたいと思っております。そしてコロタイプという技術が、もっと大げさに言ってしまえば、人類が作り出したこの技術というものを私達が今後、どのように伝えていくのかという事以上に、使っていくのか、どのように使いこなせるのかということが問われているのではないかと思っております。
大変慌ただしく、また的を絞りきれないような話で大変恐縮でございましたが、以上を持ちまして私の話を終わりにさせていただきます。(2010年12月11日 於 京都府庁旧本館)
【 表 】写真印刷年表─コロタイプ印刷をめぐって
1822年 ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(仏)がカメラによって得られる像の定着に成功して「ヘリオグラフィー(Heliographie)」と名づける。
1839年 ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(仏)が発明したダゲレオタイプ(銀板写真)がパリの学士院で公表される。
1841年 ウイリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(英)が発明したカロタイプ(紙ネガ/ポジ法)の特許が取得される。
1843年 イポリット・ルイ・フィゾーがダゲレオタイプを直接製版して写真を印刷するフィゾー法を完成させる。
1852年 タルボットが腐食鋼板を版とするフォトグリフィック(写真彫刻版)法の特許を取得する。
1855年 アルフォンス・ポワトヴァン(仏)が写真石版法を完成させる。
1862年 上野彦馬が『舎密局必携』の中で「写真石版法」を紹介する。
1864年 ワルター・B.ウッドバリーがウッドバリータイプを完成させる。
1869年 ヨゼフ・アルベルト(独)がコロタイプ法を完成させる。
1869年 下岡蓮杖がビジンから砂目石版術を学び、徳川家康像の製作に成功する。
1879年 カール・クリッチェ(チェコ)がアスファルト粉末を使ったフォトグラビア(撒粉式グラビア印刷)法を完成させる。
1880年 S.H.ホーガン(米)が網版を使った写真凸版法を考案して、「ザ・ニューヨーク・デイリー・グラフィック」紙に「シャンティタウン
(貧民街)」の写真を掲載する。
1889年 小川一真が、アメリカ留学で習得したコロタイプ印刷技術により、小川写真製版所を開業して、美術雑誌『國華』の写真図版を印刷する。
――― この頃、岩橋教章が、亜鉛板を使った写真網目版の印刷に成功する。
1893年 K.クリッチェが、白線スクリーンを使ったロト・グラビア(輪転グラビア)法を開発する。
1894年 『日清戦争実記』(博文館)が、小川の勧めによって写真網目版で写真口絵を掲載する。
1895年 陸地測量部撮影による写真集『日清戦争写真画』(小川一真)が刊行{コロタイプ印刷は小川一真写真製版所による}。
1902年 小川一真が『東京百美人 Geisha of Tokyo』を刊行{コロタイプ印刷は小川一真写真製版所による}。
1903年 イラ・W.ルーベル(米)が、オフセット印刷法を開発する。
アルフレッド・スティーグリッツの編集で写真雑誌『カメラワーク Camera Work』が精巧なフォトグラビア印刷で創刊される。
1904年 『写真例題集』(桑田商会)が月例の懸賞写真募集を目的に創刊される{コロタイプ印刷は桑田商会による}。
1905年 便利堂がコロタイプ印刷所を京都、新町通竹屋町に開設する。
1906年 『写真月報』1月号(第11巻第1号)に結城林蔵がフォトグラビア法の見本として渡辺進撮影による「肖像」を凸版印刷合資会社の印刷
で掲載する。
1909年 ヒューブナー・W.カール(米)が、平版印刷法による多色写真製版法のHBプロセスを完成させて特許を取得する。
1913年 アルヴィン・ラングドン・コバーンが写真集『Men of Mark』(Duckworth &Co.)を刊行{フォトグラビア印刷はThe Ballantyne Press,
Londonによる}。
1914年 飯田湖北が写真作品集『湖北印画集』(飯田鉄三郎)が刊行{コロタイプ印刷は桑田商会による}。
1920年 HBプロセスが大手印刷会社6社により輸入される。
1921年 「朝日グラフィック」(大阪朝日新聞社)が、ロト・グラビア法を使い、同紙の日曜版付録として週刊で創刊される。
1922年 福原信三が写真作品集『巴里とセーヌ』(写真芸術社)を刊行。
淵上白陽は写真雑誌『白陽』(白陽画集社)を創刊(コロタイプ印刷は細谷真美館による)。
1930年 写真集『アジェ パリの写真家 Atget Photographe de Paris』(Jonquiers)がコロタイプ印刷で刊行される。
1933年 小石清が写真作品集『初夏神経』(浪華写真倶楽部)を刊行{コロタイプ印刷は細谷真美館による}。
コロタイプ150年の歩み――日本はコロタイプの国である (抄)⇒全文はこちら
東京都写真美術館 金子 隆一先生

今日はこの「コロタイプ技術の保存と印刷文化を考える会」で、こんなに沢山の人の前で話が出来るということは、光栄というよりも、とにかくとても嬉しいです。コロタイプ印刷について色々な思いがありますし、写真の歴史を研究するなかで、この技術がいかに日本の写真の歴史にとって重要なものであるかということを痛感しているからであります。
今日は、皆様に資料として「写真印刷年表――コロタイプ印刷をめぐって」(下記【表】参照)をお配りしております。基本的にこの年表に沿ってお話をさせていただきます。
この年表に写真集や写真雑誌については個別にデータ的なものを書いております。ここに取り上げたものを全部皆様にお見せするということは、残念ながらスペースの問題、東京から持ってくるという関係がありましてかないませんでしたが、私がする色々な話もさることながら、現物を是非見ていただきたいという思いがあります。そこで、小川一真が日本で最初に商業的なコロタイプ印刷として携わった美術雑誌『國華』創刊号を始めとして、コロタイプ印刷、もしくはそれに関係する他の技術による写真印刷物を今日、ここに持ってまいりました。
まず、私が最初にコロタイプに大変興味を持ったのは、今から30年ほど前、それまで「写真の本道を外れて、間違った方向に進んだつまらないものだ」という評価をされていた、日本の大正期を中心としてピークを迎える日本のピクトリアリズム、絵画主義の芸術写真に興味を抱いたことに始まります。写真雑誌等を手がかりに実際様々なオリジナル作品を見ますと、私には大変面白く、良い作品が沢山あるじゃないかと思いました。何でこれを、本にダメだと書いてあるからダメだと言わなくてはいけないのかという非常に素朴な疑問を持ったのでした。(略)
ヨーロッパやアメリカのギャラリーでは、いわゆる普通の印画紙、銀塩のゼラチン・シルバー・プリントに焼き付けたもの、またピグメント印画法と言われるゴム印画、そしてブロムオイル印画等の特殊な技術、また銀塩ではなくプラチナタイプ、サイアノタイプ等鉄塩を使う様々なものが「オリジナル・プリント」と言われ、手刷りのグラビア、ハンドメイドグラビアとも言われるフォトグラビア、いわゆる網点(スクリーン)を使わない撒粉式のグラビア印刷で刷ったプリントも、それと同等のものとして扱われています。
アルフレッド・スティーグリッツが編集した『カメラワーク Camera Work』という雑誌がございます。1903年に創刊された雑誌で、全部で50冊出ておりますけれど、これは非常に精巧なフォトグラビア印刷です。そのリーフがオークション等で1点100万円、200万円という単位で取引されるということが現実としてありました。実際にそういうものを東京都写真美術館で100万円単位で購入したものもございます。ヨーロッパやアメリカの人たちには、フォトグラビアの印刷物は「オリジナル・プリント」なのです。
では「コロタイプの印刷物はどうなのか」と、ある研究者に訊ねました。ジェフリー・ギルバートという人ですが、ギャラリーも経営し、研究者としても非常に業績のある方です。その彼に言わせれば「フォトグラビアはハンドメイド、手で刷るけれども、コロタイプは機械的なもの、メカニカルなものだからそれはオリジナル・プリントと言うことはできない」というのです。「そうか」と私は思いました。が、同時に「でも」とも思ったのです。
私が興味を持った日本のピクトリアリズム芸術写真のなかで、淵上白陽が編集したコロタイプ印刷による雑誌『白陽』のリーフはとても素晴らしいです。それをもって私は初めて日本のピクトリアリズムについての論考をカメラ雑誌に書くことができました。
そこで「日本ではフォトグラビアはあるのか」と調べると、無いんです、その歴史が。1906年、『写真月報』1月号(第11巻第1号)に結城林蔵という研究者が、フォトグラビア法の見本として、写真家・渡辺進が撮影した「肖像(ポートレート)」を凸版印刷合資会社の印刷で掲載しています。そういうことは出てくるのですがそこから先は無い。フォトグラビアの歴史というのは、勿論アンダーグラウンドで目に見えない形では色々あったかとは思いますけれど、表には出てこない。日本にはそのフォトグラビア印刷がないとすると、芸術写真の歴史のある部分が無いということになってしまいます。「これはおかしい。あるじゃないか、ここに」というのが、私が「コロタイプ」に直接的な興味を持った最初でございます。

この「コロタイプ」という印刷技術は、ヨーロッパやアメリカではどうだったのでしょうか。確かにジェフリー・ギルバートが言う通り、機械的なものとしていわゆる学術報告などで使われることはあったとしても、それ以上の、芸術的なものを印刷する技術としては大成しませんでした。勿論幾つかあるかもしれませんが見ることが出来ません。
それでは日本ではどうだったのか。日本の「コロタイプ」は、明治の末から大正時代をピークとして昭和まで続くピクトリアリズムを標榜した芸術写真を、まさに「オリジナル・プリント」と言っていいクォリティーを持って十二分に再現する印刷技術として花開いているわけです。このことをもっと強く言わなくてはいけないのではないかとずっと思っています。
幸いにして私は、外国で色々な日本の写真の展覧会企画に関わる機会を得ることが出来ました。そういうなかで私の経験したことを話し、日本のコロタイプ印刷によるプリントが、フォトグラビアと同等の存在であるということを理解させることが出来ました。それはとても簡単なことでした。現物を見せれば理解してもらえたのです。彼らは日本のコロタイプ印刷がどういうものであるのかということを直接に見ることがなかったのです。直接見れば、それは、彼らが素晴らしいと言っているフォトグラビアによる作品と比べてと何の遜色もない、ある意味ではそれ以上のクォリティを持っている印刷物が、まさに「オリジナル・プリント」として目の前にあるということを十人が十人、見れば一発で理解してもらえたという経験をいたしました。それ故に、今や日本の大正時代を中心とするコロタイプの印刷物は「オリジナル・プリント」として世界的にも認知され、様々な美術館で展示するという機会を、正当に展示するという機会を得ることが出来たのです。
冒頭に、私の極めて個人的な事を話をさせていただきました。実はこの個人的な気持が「コロタイプ150年の歩み│日本はコロタイプの国である」というやたら大声で叫んでいるようなタイトルにしているのです。それは、今言いました私の経験から発していることです。日本はコロタイプの国なんです。残念ながらフォトグラビアの国ではありません。グラビア印刷の国になるのは戦後になってからであります。まず写真印刷の歴史はどういうものであるのか、ということについて簡単にお話をさせていただいて、そのなかでコロタイプという技術がどういうものであるのかということをお話しさせて頂きたいと存じます。
年表に沿ってお話をさせていただきます。まず、最初の「1822年 ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(仏)がカメラによって得られる像の定着に成功して〈ヘリオグラフィー(Heliographie)〉と名づける」。露出時間、約八時間かかる撮影法です。感光材料としては、アスファルトピッチというもの、現像にはラベンダーオイルを使います。それは、腐食させればそのまま写真の凹版の製版が出来るのです。つまり、これはよく言われることですが「写真術の始まりは写真印刷術の始まりである」というのは、このヘリオグラフィーを始まりとするとそうなります。その後1839年のダゲレオタイプ(銀板写真)の発明、1841年のタルボットの紙ネガ/ポジ法の特許というところでいわゆる写真術の発明は確立していきます。(略)いわゆる写真というもの、銀塩の写真というものは保存性が悪い。それは写真術が発明された当初から分かっていたことでした。(略)
それではどうすればよいか。ピグメントに置き換えればいい。ピグメントはそれこそずっと、千年という歴史の中でその耐久性はすでに証明されているので今さら強制劣化試験なんかする必要もありません。千年のモノがすでにあるわけです。だから銀がダメならインキにしよう、というところからダゲレオタイプを製版して画像を作るとか、タルボットが腐食鋼板を版とするフォトグリフィック法など様々なものが考案され、凹版、平版、凸版とつながっていきます。そのなかで、いわゆる平版の写真印刷技術として確立しするのは、1869年ドイツのヨセフ・アルベルトが発明し、完成させたコロタイプ法であります。⇒参照「コロタイプとは?」
このコロタイプ法は、混ぜると光に対して感光性を持つ、いわゆる光に当たったところが硬くなり、光に当たらなかったところは柔らかいままで残るという状物質と重クロム酸カリ、重クロム酸アンモニウムなどの重クロム酸塩の混合物がもつ原理、現象を利用したものです。それを1855年に発見したのがアルフォンス・ポワトヴァンという人であります。つまり写真の製版は全てこのポワトヴァンから始まるといっても決して言い過ぎではないと思います。
そして、そのヨセフ・アルベルトのコロタイプ法の完成から10年後、1879年カール・クリッチェ、チェコの人ですけれども、その人がアスファルト粉末を使ったフォトグラビア(撒粉式グラビア印刷)法を完成させます。そしてその次の年にアメリカ人のS・H・ホーガンが、スクリーン(網版)を使った写真網目版法凸版を考案します。大体19世紀、1880年代で平版、凹版、凸版の写真印刷技術、しかもスクリーンを使ってという現在の写真印刷の基本的な枠組みというのは出来たようです。
この時代はもう一つ大きい「写真の技術」ということで考えると、ゼラチン乾板が出来て、その工業化、産業化が行なわれていく時と丁度重なっていきます。ですからまさにここで写真術というもののインフラが大きく転換するという時代に、写真印刷術の基本的な技術の枠組みも大体出来上がってきた、と考えてもよろしいのではないでしょうか。
そして、では日本ではどうだったのか、という話になります。1862年、日本で、厳密に言うと二番目ですけれど、長崎で営業写真館を開いた上野彦馬という人がいます。その人が書いた『舎密局必携』という本があります。これは、今風な言い方をすれば「化学ハンドブック」というものであります。その本のなかで写真の撮影技術、コロジオン湿板による写真の撮影技術、「撮形術 ポトガラヒー」という附録がつき、さらにその附録として「写真石版法」がそこに載っております。ですが、実際に彦馬がやっていたのかということの事跡は残念ながらわかりません。(略)
そしてその写真石版という技術ですが、これはいわゆる網版を使わないでしかもレチキレーションも使わないで諧調を出そうとする技術なんです。しかし、残念ながら安定しません。つまり白黒だけの線画というんでしょうか、線画を作る分には明快な技術なんですけれど、つまり写真のグラデーションを出すには非常に困難なものでありました。これは日本のみならず、世界的にも写真の諧調を印刷する技術としてこの写真石版法というのは安定した技術へと発達をしておりません。
そしてそれが改良されるというか、それではないもう一つの技術がコロタイプです。小川一真がコロタイプ印刷を日本に導入します。その他にもほぼ同じ時期にコロタイプの印刷を研究したという人は沢山おります。光村利藻もその一人であります。小川一真のその技術というのは、やはりアメリカ仕込みということもありまして圧倒的な技術力を持っておりました。非常に安定した技術ということです。
つまり、印刷技術がもちろん一枚を作るということ以上に、同じものをどれだけ大量に作れるかということはとても重要なことです。先程申しましたように、写真の印刷「photography in ink〈印刷された写真〉」は先ず最初に保存法として考えられましたが、同時に大量複製技術としてのポテンシャルを持つものであるということにすぐ気が付くわけです。そう考えた時にその複製技術は印画紙に焼き付けることとは桁が違う。印画紙だったら10枚単位なのが印刷ならば100枚単位。今では何百万という単位を瞬時に、というのは大げさな言い方ですけれど、短い時間に大量に複製を作ることが可能になっています。そういうポテンシャルを持つ技術である、と見ることは重要な見方ではないかと思います。それがどれだけ安定して、いつも同じようにできるか。写真術というのは実験ではなく、常に実用的な技術、安定した技術として発展し、世の中を変えて来ていると思います。

『國華』創刊号 小川一真によるコロタイプ図版「興福寺 無著像」
そして岡倉天心やフェノロサなどと関わって、小川一真は1889年に、美術雑誌『國華』を創刊します。その一番最初が有名な興福寺の「無著像」。写真はもちろん小川一真自身によって撮られたものであります。そして日本のコロタイプの印刷技術というものが、小川一真によって非常に高いレベルが作り出されたということは認めていいことではないかと思います。(略)
この会場の前の方に日清戦争、日露戦争のアルバムが並べてあります。日清戦争はコロタイプです。日露戦争は写真網目版で、日清戦争は十九世紀の戦争、日露戦争は20世紀の戦争でありまして、この日露戦争の直前に小川一真はアメリカに行き、写真網目版の技術を学んでまいります。そして日露戦争の写真帖を次々と発刊をしていきます。日清戦争の時代と日露戦争の時代は何が違うか。コロタイプと写真網目版の違いというのは何か、ということですが、先ず、決定的に部数が違う。コロタイプ印刷だと百単位、それに対して網目版はいうまでもなく千単位、万単位が元々可能な写真印刷の技術であります。それともう一つ、写真網目版はつまり凸版ですから活字と一緒に印刷することが出来る。今日につながる視覚メディアというものを可能にする、そういうものを生み出していったといっていいのではないでしょうか。(略)
そして冒頭に私の個人的な経験、ということで申し上げた芸術写真の問題でございます。その芸術写真というものは、オリジナル・プリントを第一義とするもので、印刷物として写真を見せるのではなく、1枚の印画紙に焼き付けたもの、もしくはピグメント印画法で手作りで作られたものそのものを見せるということで成立をしていると言っていいでしょう。絵画の規範を写真に持ち込む、となった時に、当然の如く絵画の持っている1点制作、つまりタブローというものが写真の中に持ち込まれたと言っていいのではないかと思います。そういった、プリントがそこにあるわけでございます。
しかしそれは、展覧会では見せることは出来るけれど雑誌や本という形の中では不可能であります。ところが1920年代の終わりから1930年代に始まる近代写真においては写真の機械性が注目されることによって最初から写真印刷物、写真集というものがオリジナルなものとして考えられていくということがあるわけですけれども、ピクトリアリズムの芸術写真の時代は、そういうことではございません。まだまだ1枚1点主義と言っていいと思います。そういう中でコロタイプによる写真印刷というものがまさにその芸術写真というものの再現する一番最適で優れた技術として使われていきました。
【表】に「『写真例題集』(桑田商会)が1904年月例の懸賞写真募集を目的に創刊される。(コロタイプ印刷は桑田商会による)」と書いているところがあります。その『写真例題集』も本日持ってまいりました。『写真例題集』、これは懸賞募集なのです。毎月お題が出るんです。「日の出」とか「海」とか「来月は○○です」と。そうするとアマチュア写真家達はそれに応募します。それで1等、2等と入選すると撮影原板を提出するんです。その当時ですと通常は、ガラス乾板です。つまりガラス乾板からダイレクトに製版して印刷です。撮影原板なんです。つまり、印画紙に焼き付けたオリジナルを複写してそれを印刷するのではない。そういう注意書きがあるんですね。ガラス乾板を送れ、と。送れない場合は焼き付けたプリントでもかまわない、ただその時は出来が悪くても文句を言わないでね、と。つまりこの『写真例題集』においては、ネガ(原板)があってそれからプリントを作るということとネガがあってそれからコロタイプを作るっていうことが全く同列のものとして考えられていました。このような考え方が日本のコロタイプ印刷のなかの根底に、芸術写真に係わる人たちの間で決定的に成立をしていたということはとても大事なことではないかと思います。
つまり芸術写真のプリントは、印画紙に焼き付けてもピグメント印画法であっても基本的に1点主義です。しかし実はコロタイプという技術を獲得することは、最初から五百、千とか複数存在することを可能にする芸術写真の写真芸術のプリント法として、明治の終わりに持つことが出来たということは、その後の日本の芸術写真の印刷物を見る上でとても重要なことになっていくのではないかと思います。

そしてその隣に並べてありますのが1914年に刊行された『湖北 写真印画集』です。飯田湖北というこれは東京の人です。奥付に飯田鉄三郎と書いてございますがこれは飯田湖北の本名でございます。言ってみれば自費出版というものですね。コロタイプ印刷は桑田商会によっています。これも関西です。
そして1922年、福原信三が写真作品集『巴里とセーヌ』(写真芸術社)を刊行し、先程申し上げました1922年に淵上白陽が写真雑誌『白陽』(白陽画集社)を創刊します。(略)いわゆるチップイン方式、図版を刷ってそれを本紙に貼り付けてそしてそれを雑誌で紐で綴じてある。もしくはホッチキスで綴じてあるという写真雑誌であります。さっと見ていただくだけでも、そのコロタイプ印刷のクォリティーが非常に高いものであり、そのオリジナルプリントの持っているその良さというものをダイレクトに伝えていると私は思います。(略)
そして今、私はピクトリアリズムの芸術写真というものの技術として、このコロタイプ印刷の持っているポテンシャルを日本は獲得し、それを推進してきた、というようなお話をしたつもりでございます。いわゆるピクトリアリズムの芸術写真というものは、1920年代の終わりから30年代に始まるその当時、日本では新興写真と言われた近代的な写真表現の動向の中で否定されます。それは「写真の本質に帰れ」という言い方でいいと思います。つまり、写真だけにしか出来ない表現を目指せ、ということであります。それはレンズのシャープな描写力、ゼラチンシルバープリントの印画紙が持っているマチエールと諧調、そして早いシャッタースピードで瞬間を留めることができる等々、写真だけにしか出来ない技術。それこそが写真表現のこれからの未来を切り開くものだ、という風に言った時に、絵画の真似をしている芸術写真というのはとんでもない噴飯物に見えるわけです。「あいつらは間違っている」と。あるいは「写真の本質を忘れた退廃である」という風にして。
日本だけではございません。世界中でピクトリアリズムを標榜した芸術写真というものが否定され、その後の新しい近代的な写真表現というものが今に至るまで続いていると言っていいと思います。ではその近代的な写真表現というなかで、いわゆる写真の印刷技術というものはどうであったのか、ということです。コロタイプの印刷は、まさにその芸術写真の技術と共に歩んできたと言っていいと思います。
フォトグラビア(撒粉グラビア)というものはなぜか日本では発達せず、いわゆる輪転グラビア、メディアと非常に結びついた印刷技術として日本では始まっていきます。グラビア、あのグラビアアイドルのグラビアです。ですから「グラビア」と言った時には、大量に複製される雑誌の口絵という印象がありました。グラビアページと言った時に日本人はそう思いますよね。こう思うのはどうも世界的に見て日本人だけのようです。外国の人はグラビアページと言っても、我々のような認識は持たないようです。それは、欧米ではグラビア印刷は一点一点のアートとして、オリジナルプリントとしてのフォトグラビアを経て大量生産の近代的なグラビア印刷に展開していくということがあるわけですが、日本では、いきなり雑誌の口絵のかたちでメディア化されたところから始まっているからではないかと思います。
それに対して、写真網目版つまり写真凸版、銅の凸版で、日本ではこれを原色版という言い方をしますが、原色版による印刷術は、ずっと写真芸術の表現を伝える印刷技術として明治から使われてきております。そのことがあったがゆえにではないかと思いますけれども、1930年代において東京を中心とした様々な新しい近代的な写真表現を推進していくようなものは写真凸版、多分原色版で刷られているものが多いです。
1933年に出版された堀野正雄という人の『カメラ・眼×鉄・構成』も写真凸版で印刷をされております。そして同じく東京で『光画』という写真雑誌がございますが、これも原色版です。これは野島康三、木村伊兵衛そして芦屋の中山岩太、その三人が同人として創刊した雑誌です。これも原色版つまり写真凸版で作られています。写真凸版は非常に明快な、メリハリの効いたトーンを再現することが可能であるという認識を当時持っていたようであります。それ故に、そういった新しい近代的な写真表現を代表するような作品を印刷するにふさわしい技術として使われておりました。
ところがその同じ年に出版された、近代的写真表現を代表する浪華写真倶楽部の小石清の『初夏神経』という写真集があります。これは実はコロタイプで刷られています。つまり、コロタイプの印刷が近代的な写真表現というものが持っている機械的な再現性、そういったものまでも含みうるそういうパワーを、実はポテンシャルを持っているということをもっと認識しなくてはいけないのではないかと思いました。
実際、このコロタイプというのが、私の中ではずっとピクトリアリズムの写真表現と分かちがたく結びついていて、その後の近代的な写真表現に替わったときにはそれは捨て去られていくもの、と思っておりました。東京ではそうでした。でも関西ではそうではなかった。実はこれはこの講演のお話をするために色々調べていくなかで気が付いたことなんです。残っているコロタイプのものをいくつか見ると、東京では全部新しい写真凸版やグラビアにどんんどん変わって行くのに、関西ではコロタイプがずっと残り、様々な近代的な写真表現を印刷する技術として使われているということがとても興味深く思いました。これがなぜかということについては全く分かりません。ただ、そういったようなことが目に付いた、ということを今ここではお話することが出来るだけであります。

右より、飯田湖北『湖北 写真印画集』、福原信三『巴里とセーヌ』、淵上白陽『白陽』、小石清『初夏神経』
でもこの小石清の『初夏神経』、めちゃめちゃにウルトラモダンです。だって表紙がアルミの金属です。スパイラル綴じ。写真はたった10点しか入っていない。大体300部くらいしか作られていない本であります。今日、そのオリジナルも持ってきてありますので是非、手にとって見ていただきたいと思います。コロタイプ印刷なんです。でもコロタイプ印刷でありながらハイコントラストが非常に強い。一枚目の写真がそうなんですけれど、黒と白のパカッと分かれた調子を再現しております。実際、そういうインパクトの強いイメージこそが近代的写真表現を代表する表現技法であるとして、多くの人がハイコントラストやブレ、フォトグラムを使っております。コロタイプがそういう技術、表現というものを十二分に伝えうる印刷技術としてのポテンシャルを持っていたということを証明しているということは、今とても重要なことではないかと思います。

植田正治『童暦』コロタイプポートフォリオ
今日皆さんの周りにフレームに入れられた植田正治さんの『童暦』のコロタイプによるポートフォリオが並んでおります。このポートフォリオ制作にあたって、監修というかお手伝いをさせていただきました。その時には「植田正治が生きていたらきっと喜んでコロタイプ印刷でポートフォリオを作ろうっていうよね」という非常に単純なのりで「やろうやろう」と乗った口であります。実際にやってみて、見ていただければ分かると思いますけれど、私はむちゃくちゃな要求を致しました。訳の分からない無理な要求としてきっと現場の方はむっとされたと思います。そんな要求に対して私がこれは、と思ったようなかたちで、もしくはそれ以上のレベルでクリアして、説得力のある印刷物になったのがこのポートフォリオだと思っております。
それは「植田正治」という非常に限定的な適用だから可能とその時は思っておりましたが、今回のこのお話をさせていただく機会を得るなかで、もう一度色々調べたり、物を見たりする中で「待てよ」と。コロタイプという印刷技術というものは、小石清の『初夏神経』というウルトラモダンな写真集を十分に、十二分に支えた印刷技術であるという事を考えると、今日、コロタイプという印刷技術というものは、今日の現代アートと言われる写真表現、そういったものも十二分に支えうる、もしくはそれを推進するポテンシャルを持っているということを、今まさにここでこの私が並べたものを見ていただくことによって、少しでも理解していただけるのではないかと思っております。
コロタイプの技術には、いわゆる過去の歴史のなかに素晴らしいものがあるということは確かです。でもその可能性、そのポテンシャル、潜在能力を今、私達がどれだけ引き出すことが出来るかということは、すごく問われていることなのではないかと思います。まさにこの「コロタイプ技術の保存と印刷文化を考える会」ということで皆さんここにおいでになっている訳ですけれど、この印刷文化を考えるのは、過去に向けて考えるのではなく、また今、その技術を保存するということを考えるのではなく、未来へ向けて考えなくてはいけないと思います。過去の歴史のなかでやってきたことを見れば今その技術というものがどれほど多くの可能性を持っているのかということが分かるはずだと思います。
その「これからの可能性」ということを皆さんと一緒に考えていくことが出来たら私はとても嬉しいことであります。そして今日の私のこの話のタイトルで使った「日本はコロタイプの国である」ということについて、「違うよ」という方もあると思いますが、「恥ずかしいことをいうなよ」と言うかも知れませんが、やはり恥ずかしげもなく私は「日本はコロタイプの国である」と言いたいと思いますし、実際にそれは、特に外国のヨーロッパやアメリカの人達に是非声を大にして言いたいと思っております。そしてコロタイプという技術が、もっと大げさに言ってしまえば、人類が作り出したこの技術というものを私達が今後、どのように伝えていくのかという事以上に、使っていくのか、どのように使いこなせるのかということが問われているのではないかと思っております。
大変慌ただしく、また的を絞りきれないような話で大変恐縮でございましたが、以上を持ちまして私の話を終わりにさせていただきます。(2010年12月11日 於 京都府庁旧本館)
【 表 】写真印刷年表─コロタイプ印刷をめぐって
1822年 ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(仏)がカメラによって得られる像の定着に成功して「ヘリオグラフィー(Heliographie)」と名づける。
1839年 ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(仏)が発明したダゲレオタイプ(銀板写真)がパリの学士院で公表される。
1841年 ウイリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(英)が発明したカロタイプ(紙ネガ/ポジ法)の特許が取得される。
1843年 イポリット・ルイ・フィゾーがダゲレオタイプを直接製版して写真を印刷するフィゾー法を完成させる。
1852年 タルボットが腐食鋼板を版とするフォトグリフィック(写真彫刻版)法の特許を取得する。
1855年 アルフォンス・ポワトヴァン(仏)が写真石版法を完成させる。
1862年 上野彦馬が『舎密局必携』の中で「写真石版法」を紹介する。
1864年 ワルター・B.ウッドバリーがウッドバリータイプを完成させる。
1869年 ヨゼフ・アルベルト(独)がコロタイプ法を完成させる。
1869年 下岡蓮杖がビジンから砂目石版術を学び、徳川家康像の製作に成功する。
1879年 カール・クリッチェ(チェコ)がアスファルト粉末を使ったフォトグラビア(撒粉式グラビア印刷)法を完成させる。
1880年 S.H.ホーガン(米)が網版を使った写真凸版法を考案して、「ザ・ニューヨーク・デイリー・グラフィック」紙に「シャンティタウン
(貧民街)」の写真を掲載する。
1889年 小川一真が、アメリカ留学で習得したコロタイプ印刷技術により、小川写真製版所を開業して、美術雑誌『國華』の写真図版を印刷する。
――― この頃、岩橋教章が、亜鉛板を使った写真網目版の印刷に成功する。
1893年 K.クリッチェが、白線スクリーンを使ったロト・グラビア(輪転グラビア)法を開発する。
1894年 『日清戦争実記』(博文館)が、小川の勧めによって写真網目版で写真口絵を掲載する。
1895年 陸地測量部撮影による写真集『日清戦争写真画』(小川一真)が刊行{コロタイプ印刷は小川一真写真製版所による}。
1902年 小川一真が『東京百美人 Geisha of Tokyo』を刊行{コロタイプ印刷は小川一真写真製版所による}。
1903年 イラ・W.ルーベル(米)が、オフセット印刷法を開発する。
アルフレッド・スティーグリッツの編集で写真雑誌『カメラワーク Camera Work』が精巧なフォトグラビア印刷で創刊される。
1904年 『写真例題集』(桑田商会)が月例の懸賞写真募集を目的に創刊される{コロタイプ印刷は桑田商会による}。
1905年 便利堂がコロタイプ印刷所を京都、新町通竹屋町に開設する。
1906年 『写真月報』1月号(第11巻第1号)に結城林蔵がフォトグラビア法の見本として渡辺進撮影による「肖像」を凸版印刷合資会社の印刷
で掲載する。
1909年 ヒューブナー・W.カール(米)が、平版印刷法による多色写真製版法のHBプロセスを完成させて特許を取得する。
1913年 アルヴィン・ラングドン・コバーンが写真集『Men of Mark』(Duckworth &Co.)を刊行{フォトグラビア印刷はThe Ballantyne Press,
Londonによる}。
1914年 飯田湖北が写真作品集『湖北印画集』(飯田鉄三郎)が刊行{コロタイプ印刷は桑田商会による}。
1920年 HBプロセスが大手印刷会社6社により輸入される。
1921年 「朝日グラフィック」(大阪朝日新聞社)が、ロト・グラビア法を使い、同紙の日曜版付録として週刊で創刊される。
1922年 福原信三が写真作品集『巴里とセーヌ』(写真芸術社)を刊行。
淵上白陽は写真雑誌『白陽』(白陽画集社)を創刊(コロタイプ印刷は細谷真美館による)。
1930年 写真集『アジェ パリの写真家 Atget Photographe de Paris』(Jonquiers)がコロタイプ印刷で刊行される。
1933年 小石清が写真作品集『初夏神経』(浪華写真倶楽部)を刊行{コロタイプ印刷は細谷真美館による}。
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